2014年8月22日金曜日

【卒論】イスラエル・パレスチナ問題

@バカア難民キャンプ(アンマン)

約7年前の大学当時、休学してピースボートに乗船し地球一周しました。その時に国際問題を学ぶカリキュラムがあり、その内の一つ「イスラエル・パレスチナ問題」について学びました。これまで自分自身にとってほとんど馴染みのなかった中東問題。

それについて船内における授業やイスラエルの平和活動家を招いての講座、またヨルダンのパレスチナ難民キャンプでのホームステイなど様々な体験を通して多くのことを知りました。それをきっかけに帰国後はこの問題をテーマに卒業論文を書きました。

あれから7年経ち、青年海外協力隊という縁で再びヨルダンに行きます。イスラエル・パレスチナ問題を通して紛争や内戦に関心を持つきっかけにもなった場所であり少なからず縁を感じる国です。そして思い出したように引っ張り出した卒業論文、その内容を掲載しています。論文としてはお粗末ではありますが何かの参考になればと思います。


卒業研究

『イスラエルパレスチナ問題』



要約

2006年11月から2月までの約3ヶ月間ピースボート(地球一周の船旅)に参加した。その時に、地球大学という洋上プログラムにおいて「イスラエルパレスチナ問題」について学んだ。それらの経験や学んだことについて、はじめにの部分で触れている。

そして第1章では、「イスラエルパレスチナ問題」について理解しやすいように、身近な例を用いて説明し、また理解する上で重要となってくるものについての説明している。

第2章では、「イスラエルパレスチナ問題」について、始まりから近年までの歴史について、重要な事件、条約、組織などを取り上げつつ説明している。

第3章では、ここ数年現在における、「イスラエルパレスチナ問題」の動向などをニュース記事を用いて表わし、それらを踏まえて、自分自身が考えるこの問題の今後の展望などについて考察している。



期間:2006年11月2日(木)~2007年2月11日(日)の101日間

寄港地:(横浜出航→神戸出港)→沖縄→ベトナム→シンガポール→セイシェル→ケニア→(スエズ運河)→エジプト→ギリシャ→マルタ→リビア→イタリア→スペイン→ジブラルタル→ラスパルマス→ブラジル→ベネズエラ→パナマ→(パナマ運河)→グアテマラ→アメリカ→ハワイイ→(横浜帰港→神戸帰港)の19カ国


出典>PEACE BOAT



写真>ピースボート神戸出航

2006年5月某日、就職活動中にある企業の採用試験(グループディスカッション)に道に迷い遅刻し午後の部にまわされた。そして午後の部のグループディスカッションに参加した。グループディスカッションは受験生6人ほどで行われ、その中の一人が自己紹介のときにピースボートの話をしており、そこで初めてその存在を知った。

しばらくして、ふいにピースボートのことを思い出し、ネットで検索した。そこには、「ピースボートは『みんなが主役で船を出す』を合い言葉に集まった、好奇心と行動力いっぱいの若者達を中心に、アジアをはじめ地球の各地を訪れる国際交流の船旅をコーディネートしている非営利のNGOです。ピースボートが目指すもの。それは各寄港地のNGOや学生達と交流しながら、国と国との利害関係とはちがった草の根のつながりを創っていくこと」1とあり興味を引かれ資料請求をした。

数日後、資料が届くと共にピースボートのスタッフらしき人から電話があった。とてもフレンドリーでよくしゃべる人でピースボートに乗ることを強く勧められた。そして乗船説明会があるので参加してみないかということだったので就職活動の合間に参加した。そこで地球一周の船旅について一通り話を聞き、スタッフの人とも話をした。しかしこの時点では、いつか乗ってみたいといった程度の気持ちであった。

またしばらくすると今度はジャパングレイス(ピースボートと提携している旅行会社)のスタッフの人からも電話があり、地球一周の船旅についての勧誘や手続き関係についての話などがあった。このときはピースボートやジャパングレイスの押しの強さに驚いていた。そして、こういった強い勧誘や自分自身の置かれている状況(就職活動、大学卒業、資金不足)などから、地球一周の船旅への気持ちを薄れつつあった。

その数ヵ月後、気づけば8月に入っていた。まだ就職活動において一つの内定も取れていなかった。その間にジャパングレイスのスタッフの人から何度か電話があったがいつも適当にごまかしていた。そして8月も半ばを過ぎ、このままとりあえずどこかに就職を決めるか、もしくは思い切って半年休学して地球一周してまた就職活動にチャレンジするか、という二択を考えるようになった。

その頃にまたジャパングレイスのスタッフから電話があり参加するかどうか最終的な確認をされ、どうするか結果を二週間後に出して欲しいということだった。その時に「世界を見るなら一年でも一ヶ月でも早いほうが良い」ということも言われた。ここへ来てかなり迷いが生じた。二週間散々悩んだ挙句、このまま適当に就職するよりは一度思い切って世界を見てみようと、また就職してしまったら絶対に地球一周することは無いだろうと思い、半ばやけくそで参加を決意した。

そして両親やゼミの先生などに許可をもらおうと思いそのことを話すと快諾してもらえた。大学の就職課の人は難色を示したが何とか説得できた。そしてその後は一気に忙しくなった。パスポートの発行や海外保険の申込、荷造り、休学手続きなどあらゆる手続きや準備があったためである。そしてその頃からピースボートセンターでボランティアスタッフとして働けば乗船費用の割引を受けられるということだったので鳥取から一番近い大阪ピースボートセンターに泊りがけで通うようになった。

ピースボートセンターは自分自身にとって異空間であった。年の差や立場など関係なくフレンドリーで活気に満ちた、今までに経験したことのない空間だった。そんな雰囲気に当初は面食らって戸惑った。しかしそこでポスター貼りや内勤などの仕事、また飲み会や様々なイベントなどを通していろいろな人と知り合った。同世代の若者や仕事を辞めて来ている人また定年を迎えた年配の人など様々な年齢層の人たちがいた。

皆それぞれ違うバックグラウンドを持ち、目的を持ち、ピースボートセンターに来ていた。そんな中で9月と10月の二ヶ月間、鳥取と大阪を往復する生活を続けた。始めは慣れない環境でなかなか馴染めないでいたのだが、出航が近づいてきた頃にはピースボートセンター内にも同世代の友達もできて、なかなか居心地の良いものとなっていた。

そして第55回クルーズ乗船者に向けて、他のクルーズ乗船予定者の人たちやピースボートスタッフの人たちが「いってらっしゃいパーティー」を開いてくれて大いに盛り上がった。出航直前には第55回クルーズ乗船者たちは準備の追い込みで忙しくあまりピースボートセンターに来る人が少なかった。

そして11月3日(金)いよいよ出航である。個人的には乗船を決意したのもピースボートセンターに来たのも遅く、忙しくしていたので気づけば出航という感じであった。13時ごろ神戸港には何百人もの乗船者や見送りの人などでごった返していた。ピースボート(トパーズ号)もすでに着岸していて、横浜で乗船した人たちがデッキに出てきていた。

そして乗船者は乗船手続きを済ませて見送りに着ていた人に別れを惜しみ乗船して行った。かなりの人数で全ての人が乗船するのに3時間ほどかかった。そして自分自身も手続きを済ませ船に乗り込むときに、ようやく今から地球一周するという実感を得た。一旦、荷物を部屋に運びデッキにでた。

デッキには何百人もの乗船者が、神戸港には何百人もの見送りの人達がいた。紙テープを投げたり、電話をしたりしている。テレビでしか見たことのない光景だった。そして、とうとう出航の合図である汽笛が鳴り、出航曲が流れ、次第に船が港から離れていった。船側の人たちは「行ってきます」と叫び、港側の人たちは「行ってらっしゃい」と叫んでいた。船はどんどん離れていった。地球一周の船旅の始まりである。

この三ヶ月あまりの間にありとあらゆる経験をした。日本では決して出来ない経験である。アジア、アフリカ、ヨーロッパ、中米、アメリカなどの様々な国を訪れ様々な人に出会った。また気候の違い、食の違い、文化の違いなど様々なことを体感した。そして船の中では全国各地から集まった、老若男女様々な人たちと知り合った。日本でなら関わることなどなかっただろう人たち、そういった人たちから様々な考え、価値観を得た。

またピースボートスタッフや専門家の人たちの話から今の日本そして世界にある問題、今まで知らなかった、もしくは関心を持たなかったことを知り、学んだ。そして全国各地に多くの友達を作ることが出来た。

そんな中でも一番印象に残ったこととは、自分と同世代の若い人たちのエネルギーや行動力また社会問題に対する意識の高さなどである。あらゆる面において今までに会ったことのないタイプの人達ばかりだった。この様な人たちに出会ったことは外国の人々や文化、食べ物など以上にカルチャーショックであった。

この地球一周の船旅はまさに未知との遭遇であった。様々な国、様々な人、様々な考え方との遭遇である。この船旅を終えて初めて、ピースボートやジャパングレイスのスタッフの人が強く勧誘していた理由、「世界を見るなら一年でも一ヶ月でも早いほうが良い」と言った理由が分かった。百聞は一見にしかずである。



○地球大学

ピースボートの船旅は大半を船上で過ごすため、さまざまなイベントやプログラムがある。その一つに地球大学というものがある。地球大学とは、受講生たちが地球大学生として一定期間、洋上でひとつの問題について専門家や現場の人たちの話を聞いたり、問題に関する資料映像を見たりして学習し、理解を深め、その後実際に寄港地において現場を訪れて、そこで実情を見聞きして実際に体験する。

そしてこれらの過程を経て得た知識や経験を他の人たちにも知ってもらうために、船内において地球大学生全員で地球大学報告会を開く。そして日本に帰った後もこの経験を生かし、受講生同士がつながりを持ち自分たちが学び経験した問題について活動行動を続けいくという目的を持ったプログラムである。



写真>バカア難民キャンプ(ヨルダン)

そしてこの55回クルーズにおいて地球大学のユニットは「日韓問題」、「イスラエルパレスチナ問題」、「ハワイイと沖縄の軍事基地問題」の3種類(それぞれ受講期間が違うので全て受講することも可能)であった。私は「イスラエルパレスチナ問題」を受講した。理由は、今までテレビのニュースや新聞で取りざたされているのを知ってはいたが、どういった問題なのかあまりよく分かっておらず、少し興味を持っていたためである。

実際にこのユニットを受講して、地球大学生皆と「イスラエルパレスチナ問題」に関して専門家の人の講座や資料ビデオなどから学び、またイスラエルに在住の活動家の人を招いて話をしてもらいディスカッションするなどして、現場の人の考え、気持ちなどに触れた。

そしてヨルダンに寄港したときにはアンマンのバカアキャンプ(パレスチナ難民キャンプ)を訪れ、そこでホームステイや交流会などを通して現地の文化や食などを体感し、また難民の人たちの話を聞いて、難民キャンプでの暮らしや難民となってしまったときの当時の状況など様々なことを知ることが出来た。これらの経験は自分自身に「イスラエルパレスチナ問題」について意識を強く持たせるものとなった。

地球大学を通して学んだ重要なことは「当事者意識」である。自分とは関係ないと思いがちな問題に対しどれほど自分のことのように考えられるか、意識することが出来るかである。それが問題解決の原動力となるのである。そして、そのためにはまずは「知ること」が重要である。



イスラエルパレスチナ問題とは?

この章では、まず第1節でイスラエルパレスチナ問題の導入として、本当に簡単にイスラエルパレスチナ問題とはどういったものなのかを全体的に例え話を踏まえて表現している。

第2節では、イスラエルパレスチナ問題を理解するうえで不可欠な、イスラエル、パレスチナ、ユダヤ人、パレスチナ人に関しての説明をしている。



入門イスラエルパレスチナ問題

○パレスチナを鳥取に例えて・・・

昔から鳥取県には鳥取人が住んでいました。鳥取県で生まれ育った人は一般に鳥取人です。ところがある日突然、鳥取県が砂丘好きの人の国(砂丘王国)になると宣言されました。その頃、世界中で砂丘好きの人は差別されていました。そしていろんな国の砂丘好きの人たちが砂丘好きの人の国が出来ると鳥取県に集まってきました。

言うまでもなく鳥取県には梨が好きな人や砂丘が好きな人、カニが好きな人など様々な鳥取人が普通に暮らしていました。しかし鳥取県に砂丘王国ができ、いろんな国から砂丘好きの人が集まってきて多くの鳥取人は四国や九州など近隣地域に逃げました。逃げずに鳥取に残った人たちは差別迫害されました。

そして国連は鳥取県が砂丘王国になることを承認しました。理由は砂丘好きの人が世界中で差別を受けているので砂丘好きの人のための国が必要だということでした。しかし国連は「鳥取県全ては取りすぎなので鳥取市だけは鳥取人の独立国にすべきだ。」と言いました。

しかし砂丘王国の軍隊は未だ鳥取市から撤退しません。鳥取市の中に住居や公共施設などを建設して居座っています。このような状況に鳥取人が黙って見ているはずもありません。そんな鳥取人から鳥取市に住む砂丘好きの人たちを護るため、砂丘好きの人は鳥取人の住むところの周りに壁を築くことにしました。

いつしか鳥取市に住む鳥取人たちはこのような砂丘王国の軍隊に対し石を投げ占領政策に対し抵抗の意思を示すようになりました。それに対し砂丘王国の軍隊は銃や戦車などで弾圧します。石を投げるのは主に子供たちで、多くの子供が負傷しました。鳥取市の各地には危険な鳥取人を取り締まるために数多くの検問所が設置されました。

そのため鳥取人はなかなか検問所を通してもらえません。そして妊婦の人が病院に行けず路上で出産するということもたびたび起きました。やがて砂丘王国は、鳥取市の若葉台だけは鳥取人の国にすると言いました。そして若葉台に住んでいた砂丘好きの人は鳥取県(砂丘王国)内の他の場所に移住しました。砂丘王国はこれを勇気ある撤退だと言っています。そのため次は鳥取人が妥協する番だと言っています。

※それぞれ何を例えているか?

鳥取県:パレスチナ地方  鳥取人:パレスチナ人

砂丘好きの人:ユダヤ人  砂丘王国:イスラエル



○簡単例え話

二階建ての建物がありました。そこに誰かが火をつけました。その家は燃え上がり炎に包まれました。そこの住民はたまらなくなり二階に逃れ、ついには窓から飛び降りました。あいにく下には人が歩いていて上から人が降ってきたので大怪我をしてしまいました。

※この話の中の人は誰なのか?

建物に火をつけた人:ユダヤ人を迫害していた人たち

建物の中の住民:ユダヤ人

道を歩いていて大怪我をした人:パレスチナ人



●世界中で差別を受けていたユダヤ人が自分達の居場所を求めた場所、それがパレスチナ人の住んでいたパレスチナ地方であった。そして、そこで争いが今も続いているのである。



イスラエル? パレスチナ?



出典>地図で見る中東情勢http://homepage2.nifty.com/cns/middleeast/

   外務省(イスラエル国)http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/israel/

○パレスチナ

地中海の東岸、東はヨルダン地溝の周辺部まで、北はレバノン山地、南はシナイ砂漠に接している地域。古称は「フル」、「カナン」という。パレスチナの語源ペリシテ人の土地という意味で、紀元前13世紀頃にペリシテ人が住みついたことに由来する。紀元前10世紀イスラエル王国が建設され、地域の中心都市としてエルサレムが建設された。

イスラエル王国の人々が育んだ民族宗教ユダヤ教の聖典旧約聖書ではパレスチナの地は神がイスラエルの民に与えた約束の地であると説かれ、このためヘブライ語では「イスラエルの地 (Egrets Israel)」とも呼ばれるようになるイスラエル王国崩壊後には周辺諸国の支配を受け、のちにユダヤ教の中からキリスト教が興ると、その聖地と定められた。

さらに、ユダヤ教・キリスト教の影響を受けてアラビア半島に興ったイスラム教もエルサレムを聖地としたため、諸宗教の聖地としてエルサレムを擁するパレスチナは宗教的に特別な争奪の場となった。

7世紀にはイスラム帝国の支配下に入り、シリアを支配する勢力とエジプトを支配する勢力の間で帰属がしばしば変わった。11世紀にはヨーロッパから十字軍が到来し、エルサレム王国が建国されるが、12世紀末にはアイユーブ朝サラーフッディーンに奪還され、パレスチナの大半はエジプトを支配する王朝の支配下に入った。16世紀になると、エジプトのマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がパレスチナの新しい支配者となる。2



○パレスチナ人

シオニズムに基づいた欧米からのユダヤ人の再入植活動が本格化する以前からこの地域に居住していたアラブ人を指す。東ローマ帝国統治下のユダヤ人やサマリア人などの子孫がアラブ人の征服に依りイスラムに改宗、言語的にアラブ化したのがパレスチナ人の起源である。

ただしローマ帝国による征服以来、パレスチナは大国の版図内に組み込まれ続けており、また3大陸の結節点に位置する交通の要衝として人の往来や戦役も多く、必ずしも全てがローマ時代以前の住民の子孫であるとは言えない。現在、パレスチナに在住するパレスチナ人は約400万人、ヨルダン在住の難民が300万人、その他の国への移民や難民を含めると約940万人であるといわれる。3



○イスラエル

正式名称はイスラエル国、ユダヤ人のシオニズム運動(パレスチナにユダヤ人の独立国家を作る運動)によってパレスチナに建設された国家



○ユダヤ人

ユダヤ教を信仰する者(宗教集団)、もしくはユダヤ人を母親にもつ者(民族集団)という2つの捉え方がある。中世以前は前者の捉え方がなされていたが、19世紀の国民国家出現以降は後者の捉え方が優勢である。4紀元前10世紀頃、古代ユダヤ人はユダヤ教を国教とする古代イスラエル王国パレスチナに建国したがイエス・キリストが生まれる少し前に滅びてしまい、それ以降彼らは流浪の民となってしまった。

国家を持たずユダヤ教という自らの民族宗教を唯一の拠り所として世界各国に散らばっていった。そしてどこへ行っても彼らは異民族として暮らしてきたのである。普通であれば、土地に同化し混血してその国の人間になってしまうのが当たり前だ。しかし彼らユダヤ人たちは混血したものの、自らの信仰と民族としての誇りを忘れずに頑なにユダヤ教の教えを守って生活した。

したがって彼らの宝と言えば、そのユダヤ教と未来を託す子供たち以外にはいなかった。当然、人が嫌がるような仕事にも就いた。やがて貿易に手を染め、金融の分野で大金持ちになる者もでて来る。ユダヤ人が信じるユダヤ教の特徴は、一神教(神はひとつ)ということである。つまりユダヤの神以外の神を認めない。逆に言えば、その排他的精神が二千年以上にも渡って各国のユダヤ人が団結を崩さずに生きてこられた理由でもあった。

しかしユダヤ人は、どこへ行ってもよそ者であり異民族であったこと、優秀でありお金持ちであったことへの嫉妬や羨望、また様々な国家が社会を安定させるために一般大衆にとっての不満のはけ口としてユダヤ人を利用し陥れたことなどが原因で差別迫害を受けてきた。ヨーロッパでは9世紀以降、各地でユダヤ人の迫害が起こった。最近では、1930年代ナチス・ドイツによる600万人の大量虐殺は記憶に新しい。5



イスラエルパレスチナ問題史

この章では、イスラエルパレスチナ問題の歴史について、シオニズム運動の始まりからそれに伴う戦争や虐殺事件、テロなどについて、また近年のインティファーダから和平の流れに関して、3節に分けて歴史の流れを追っている。



シオニズム運動、イスラエル建国

パレスチナは1516年以来オスマントルコに支配下にあった。この頃は、イスラム教徒、キリスト教徒、またユダヤ教徒などさまざまな宗教の人々が平穏に共存していた。19世紀に入り民族主義6の高まりにより、ヨーロッパ各国においてユダヤ人排斥運動が生じる。また帝国主義7的発想が広がりを見せる。

1880年代初めからロシアで連続してポグロム(ユダヤ人虐殺)が発生していた。これに大きな衝撃を受けたロシアのユダヤ人たちによって、ユダヤ人のパレスチナへの移住・植民地化が本格的に開始された。この時、ロスチャイルド家8は東欧系ユダヤ人をパレスチナに入植させるために資金を提供して力を尽くした。そして送り込まれた東欧系ユダヤ人たちは、現地でパレスチナ人を低賃金で働かせ農地を広げていった。

1882年から1903年までの間に、主としてポグラムを逃れたロシア・東欧からのユダヤ人約2万5000人がパレスチナへ移民してきた9。またドレフュス事件10をつぶさに目の当たりにしたテオドール・ヘルツル(ユダヤ系ジャーナリスト)は他民族との共存を諦め、ユダヤ人独自の国家を創ることを決意し、「ユダヤ人国家」という小冊子を著し、それが大きな反響をよびシオニズム運動11に発展していった12

シオニズムのもう一つの顔は、現地住民に対する徹底した無視だった。シオニズムは「土地なき民に、民なき土地を」(土地なきユダヤ人に、人の住んでいないパレスチナの地を与えよ)をスローガンとして掲げた。しかし、もちろんのことパレスチナ人は住んでいた。それにも関わらず、出来る限りパレスチナ人を排斥してそこにユダヤ人だけのための国家を創ろうとしたのである。

しかしパレスチナの地にはロスチャイルドの送り込んだ東欧系ユダヤ人がいて、そこに住むパレスチナ人を低賃金労働者として雇っていた。一方シオニストのユダヤ人はユダヤ人国家のためにパレスチナ人を排除していた。そのため二者間でしばしば衝突が起きた。そしてシオニストは「ユダヤ人の商品だけを買う運動」などを繰り広げた。これはパレスチナ人の商店への襲撃やそこで品物を買うユダヤ人への嫌がらせなどを導いた。こうしてパレスチナ人の職場を奪っていったのである13

イギリスとフランスは老朽化したオスマン帝国の支配下にあったパレスチナを虎視眈々と狙っていた。そして第一次世界大戦(西欧による中近東、アジア、アフリカ、太平洋をめぐっての争奪戦)のさなかパレスチナを含む中東の多くの部分の分け前配分は、イギリスとフランスの間で話がついていた。これを「サイクス・ピコ協定」(1916年)という14

またイギリスは、第一次大戦において、アラブ人を戦いに引き込むことで中東における戦線をきわめて有利に展開できると考え、アラブ人に対して「フセイン・マクマホン書簡」15を交わした。16そしてイギリスは第一次大戦を有利に導く目的で、ユダヤ人の関心と支援を取り付けるために、「バルフォア宣言」17を発した18

このようにイギリスは「イギリスとフランスのパレスチナ分割」、「アラブ人の独立国の設立」、「ユダヤ人国家の設立」という三枚舌を使い欺いた。そして1922年9月、第一次大戦終結後のイギリスによるパレスチナの委任統治が始まった。そしてユダヤ移民がパレスチナへ怒涛のように押し寄せ、1917年には5万6千人だったユダヤ人口は、1929年には15万6千人に膨れ上がった19

パレスチナの地に大量にユダヤ人が流入して、我がもの顔で土地を利用したことにより、それを不服としたパレスチナ人によるユダヤ人暴行事件がエルサレムで起きた。これに対してユダヤ人は自警団をつくって反撃し、双方で10人近い死者を含む数百人の負傷者を出す衝突に発展した。

衝突はその後10年続き、そして1929年、ユダヤ人青年グループがダビデの星の旗をエルサレムの「嘆きの壁」に飾ったことから、パレスチナ人とユダヤ人の衝突が全土に広がり、ユダヤ人133人、パレスチナ人116人が死亡し、双方で数百人が重軽傷を負うという惨事に発展した。その後もパレスチナ人とユダヤ人の闘争は続き、イギリスは統治能力を失いつつあった。

そして進退窮まったイギリスはピール調査委員会を設けた。委員会は1937年にパレスチナ分割案(ピール分割案)20を出し、白書として発表したが、大イスラエル主義を主張する「修正シオニズム」主義者とパレスチナ人の反対にあい、全面対立に終わった。その後イギリスは分割案を破棄し、パレスチナ白書(マクドナルド白書)21を発表したが、ユダヤ人はこれをイギリスの裏切りと見た22

またこの頃、ナチズム23が台頭してきた。そして第二次世界大戦(1939年)の勃発とともにパレスチナ人の蜂起は沈静化し下火になり、パレスチナ人は方向を見失った。そしてイギリスの敵のナチスを支援した。「敵の敵は味方」という論理である。一方、ユダヤ人はイギリスとともにナチスと闘った。イギリスの勝利とともにユダヤ人はパレスチナで力を持つようになった。

しかもナチスによる「ホロコースト」24のことが明るみに出るにつれ、世界中の国々はユダヤ人に同情し国を持つ権利を認めるようになった25。この間にアメリカのユダヤ人達はニューヨークのビルトモア・ホテルで「ユダヤ機関(JAFI)」を開き、全パレスチナを「神に与えられた土地」にする「ビルトモア綱領」を採択し、パレスチナにユダヤ人国家を建設するため、募金活動や、アメリカ政府への働きかけなどといった公然たる活動を開始した。

これはユダヤ人が自分達の後ろ盾をイギリスからアメリカに乗り換え始めたことを意味する。そしてユダヤ人テロ組織によるイギリス攻撃が激化した。そして1947年4月、イギリスは紛争解決の見通しを持てなくなり、できて2年ばかりの主として第二次世界大戦後の戦勝国の政策を国際的に追認する機関だった国連の手にゆだねた26

第二次世界大戦後、シオニストの政策に変化が起きた。第一の原因は、ナチスのユダヤ人大量虐殺が明るみに出たことである。それによってシオニズムの活動は強化された。第二の原因は、国際社会にユダヤ人同情論が支配的になり、ユダヤ人難民のパレスチナへの移住を制限するイギリスに対し圧力をかけ始めたことである。ユダヤ人をパレスチナに押し出すことによって、アメリカや西欧が自国内のユダヤ人問題を解決しようとしたためである。

イギリスの全ての試みは破綻してしまった。そして問題をゆだねられた国連は特別委員会を現地に派遣し、アラブ国家、ユダヤ国家、エルサレムとベツレヘムの国連統治地区(エルサレム国際管理地区)の3地区に分割する案を採決にかけ可決した。国連のパレスチナ分割決議案(1947年)である。これはパレスチナ人に完全に不利な内容だった。パレスチナの土地6%しか所有していなかったユダヤ人が、52%を得ることになった。この結果はアメリカが各国に対して脅しや援助をちらつかせるなどの露骨な下工作のためである27

初期のユダヤ人とパレスチナ人の小規模の衝突の後、1948年3月になると、イギリスの後押しによって生まれたアラブ連盟が介入し、シリアからアラブ解放軍がパレスチナに入り、一挙に戦争状態となった。そして1948年5月14日にイギリス軍が撤退し、イスラエル建国を宣言した。ベングリオンが初代首相となる。



占領、抵抗、弾圧、テロ

イスラエル建国を、アメリカ、ソ連、東欧などの国々は直ちに承認した。しかしアラブ諸国は、これに激しく反発し、対立抗争は瞬時に激化して、数時間のうちに第一次中東戦争の口火が切られた。

この戦争をイスラエルは「独立戦争」、パレスチナ人は「パレスチナ戦争」と呼んだ。イスラエルの建国宣言の翌日に、エジプト、トランスヨルダン、シリア、レバノン、イラクの周辺アラブ諸国の軍隊約2万人が、総がかりでイスラエルへ一挙に攻め込むことにより開始された。イスラエルにとって、ここでアラブに敗れることは、生まれたばかりの新生イスラエル国の抹殺を意味していた。

そのため欧米のユダヤ系市民、組織からさまざまな支援を受けて、厳しい緒戦を懸命に持ちこたえた。アラブの兵力はイスラエルに勝っていたにもかかわらず、足並みがみだれ、イスラエルは兵員、兵器、の動員力、国民全体の団結力を示し、形成を盛り返していった。最終的に、戦闘終結の時点で国連のパレスチナ分割決議で決められた面積より23%も大きい地域を獲得した28

シオニスト側は第一次中東戦争の前から入念に検討されたダーレット計画(D計画)で、エルサレム及びアラブ国家の重要部分の占領とパレスチナ人追放を計画済みだった。戦後の境界をイスラエルとトランスヨルダンが秘密交渉で決めていた通りとなった。ガザはエジプトへ、東エルサレムとヨルダン川西岸地区はトランスヨルダンの手に渡った。こうしてパレスチナの独立は根こそぎもぎ取られ、自決権は踏みにじられ、多くのパレスチナ難民が発生した。

シオニスト勢力は、イスラエル建国を宣言する1948年5月14日までにエルサレムの一部を占領し、アラブ国に予定されていた土地にも軍を進めていた。この日までにパレスチナ難民の数は30万人に膨れ上がっていた。1948年5月14日以降、難民の数は増加し、国連の推計で72万6千人、パレスチナ側の推計で85万人に上った。難民はその後も増え続け、二年後の1950年には95万人を超えた。このように難民が発生したのは、武力、策略、虐殺に続くパニックが原因であった。

この脅しを効果的にした一連の虐殺テロで最大のものは、エルサレムのデイル・ヤシーン村住民254人の虐殺(1948年4月9日)で、無抵抗の村民が殺され、生き残ったものは血だらけの服のままエルサレムで「勝利の行進」をさせられた。この村は戦争に中立を表明していたにもかかわらずこのような酷い目にあったため、他の村々はパニックに陥ったのである。

これに対しアラブ人グループの報復テロがあり、再報復を恐れるパレスチナ人の離散を促すことになった。最初は右派によるパレスチナ人虐殺を避難していたシオニスト主流派も、虐殺がパレスチナ人の離散に効果を上げるのを見て追認していった。

アイン・アイゼットネ村では、37人の少年がユダヤ人の軍隊に引き立てられたまま消えた。 サフサの村では、4人の少女が強姦され、70人が目隠しされて射殺された。ドワイマ村では女子供を含む80~100人が、こん棒で頭を割られて処刑された。

ユダヤ人側は、当初は計画的にパニックを引き起こして逃亡させるように仕向けていたが、それ以降はなりふりかまわぬ武力によって追放していった。全てダーレット計画に沿って実行された。そしてユダヤ人は占領した村々の土地を耕し、そこに住み始めたのである29

イスラエル建国後はダーレット計画完成のため、パレスチナ人の追放と村の破壊が合法的に開始された。これは現在まで延々と続いている。様々な法律を用いてパレスチナ人を追放し、土地財産を没収していったのである。最終的にイスラエルは、パレスチナ全土の77%を得るようになった。

国連決議の1.5倍の土地を手に入れたイスラエルはこの現状を維持することを願った。イスラエルは1949年に国連に加盟し、1950年にはこの地域が英米仏三国共同管理の下に置かれるという宣言がなされた。さらにアメリカはソ連を封じ込め、中東における社会主義勢力の浸透を止めるためバグダード条約を用意した。この条約は、各国の領土を現状のまま認めるという性格を持ち、それはイスラエルには望ましいものだった30

アラブにとって、軍事的に優勢さ情勢下で開始された第一次中東戦争は、アラブの敗退におわり、アラブ各国の支配層は、それぞれの国民から批判の目で見られるようになった。相した背景の下、戦争が終わってアラブ諸国の間にいまだ敗北感が消えない中で、戦争から3年後の1952年に、エジプトで一つの革命が起こった。

それは、後にアラブの指導者となるガマル・アブドル・ナセルが指導する、エジプト革命であった。中東でほぼ初めての社会革命であったと言える。ナセルは革命の成功によって政権を手にした後、中立、非同盟の基本路線を選び、次第に国際社会の注目を集めていった。

英米はこのナセルを引き寄せるため、ナセルに対し、中東におけるソ連封じ込めのための軍事同盟である「バグダード条約」への参加を働きかけていった。しかし、中立、非同盟の基本路線をとっていたため、これを拒否した。

また当時エジプトはイスラエルとの国境紛争やイスラエルの軍備増強を目の当たりにし、自国の軍事力の拡充を強く望んでいた。しかし米英は、中東戦争の再発を防ごうとする米英仏による武器輸出禁止取り決めもあり、エジプトへの武器給与を拒否した。このため軍事援助を必要とするエジプトはソ連に目を向け、貿易協定の形をとって、武器の大量購入を実現していった。

その頃、ナセルはエジプトの経済発展のために、巨大プロジェクト実施の一つとして、アスワン・ハイダムの建設を計画していた。しかし、建設資金融資の約束をしていた米英は、エジプトの軍事協力の拒絶とソ連への接近を警戒して、約束を取り消したため、アスワン・ハイダムの建設が中止になった。そのためナセルは米英への対抗手段として、またソ連との関係強化のため、スエズ運河の国有化を発表した。

スエズ運河運営会社の株主でもあり、石油を含む貿易ルートとして、スエズ運河を利用するイギリス・フランス両国はこれに反発し、第一次中東戦争でエジプトに敵対していたイスラエルをエジプトに侵攻させ、イスラエルがシナイ半島へ襲い掛かった。第二次中東戦争(スエズ動乱、スエズ戦争)が勃発である。

ここへ来てアメリカ、ソ連、国連が英仏両国を批判し、戦闘の停止と軍の撤退を行うように圧力をかけた。また時期を同じくして、当時社会主義国であったハンガリーで民主化運動が活発化し、そのデモ隊鎮圧にソ連軍が出動するという、後にハンガリー動乱31と呼ばれる事件がおこった。

この軍事行動によりソ連へ批判が集中するはずであったがそれ以上に国際的影響の大きい第二次中東戦争に世論が集中してしまい、アメリカとしては早く第二次中東戦争を収束させ世論をソ連非難にむけたいという思惑があったからと言われる。こうした予想外の圧力により、英仏は停戦の受託を余儀なくされた。そしてこの戦争によって政治的ダメージを追っただけであった。そうした政治的な後退はヨーロッパ諸国による植民地主義の実質的敗退を意味した。

すなわち、第二次大戦の結果、欧州においては民族主義の高まりと、それを背景とする民族国家の独立が実現したが、中東においてはそうした動きは欧州列強によって厳しく抑圧されていた。しかしこの第二次中東戦争の結果、民族主義の動きが拡大していくこととなった。

そしてエジプトのナセルは多大な軍事力、人命を失ったもののスエズ運河の権益を手にし、領土を守った英雄としてカリスマ性を高めていき今後の中東情勢に大きな影響力を発揮する人物となっていった32

また第二次中東戦争のさなかに、イスラエル中央部でもう一つの虐殺事件が起こった。カセム村事件(1956年10月29日)である。村民は外出禁止例が申し渡された。命令発行のたった30分前である。多くの村民は遠くへ働きに行っていて、30分以内に村に戻れるはずがなかった。命令を受けたイスラエル兵は「女、子供はどうするのか」と質問した。

上官は「哀れみをかけるな」と言った。こうして仕事から次々と帰宅した村民47人が待ち伏せされ、並ばされて処刑されたのである。最後に殺されたのはトラックに乗っていた女性14人を含む17人であった33

第二次中東戦争後の約10年間は、国際政治の舞台における英仏の力の退潮、ナセルのアラブ世界での地位向上といった国際環境の変化はあったものの、中東では表面的には、大きな事件も無く過ぎていった。しかし水面下では、イスラエルとエジプト、ヨルダン、シリアなどは小競り合いを続けていた。

そしてイスラエルとパレスチナ人、アラブ人は互いに不満、反感、敵意を増幅させていった。そしてこの時期に、イスラエルはアメリカの対イスラエル援助によって陸海空の三軍の戦力を着実に強化させていった34。こうした状況を背景に、アラブ連盟は1964年に自らの主導権の下にPLO(パレスチナ解放機構)を設立した。

またPLOとは別のところでパレスチナ・ゲリラの組織が誕生していた。その一つが「ファタハ」(パレスチナ解放運動)35である。これは「ユダヤ人を海へ」というかつてのスローガンを排し、新しく「民主主義的・非宗教的パレスチナの建設」をスローガンとした。つまり、ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も差別なく平和に生きられる社会を目指すというものである。この方針は後にPLOのスローガンとなる。

そして「ファタハ」は1968年3月にヨルダン川東岸のカラメのパレスチナキャンプに侵攻してきたイスラエル軍を撃退した後、一挙にその地位を高めた。そして1969年2月にはファタハの指導者だったアラファトがPLO執行委員会議長として就任し、PLOでゲリラ勢力が実験を握ることとなった。そしてヨルダンにおいてPLOの活動が活性化した。

またPLOに次ぐ第二の勢力としてPFLP(パレスチナ解放人民戦線)があった。しかしこれらの組織は分裂を繰り返す。PFLPからPDFLP(後のDFLP=パレスチナ解放民主戦線)、PFLP・GC(総司令部派)、PLF(パレスチナ解放戦線)、PSF(パレスチナ闘争戦線)などが誕生していった。その後、ゲリラ活動が活発化し、イスラエル国内で頻繁にテロが起きた。これに対するイスラエルの報復攻撃も激化した36

またイスラエル側においては、基本的な考えとしてアラブ側の力の増大を防ぐためには、一定期間ごととに機会をとらえて、アラブを軍事的に叩く必要があると考えていた。従ってアラブ諸国と軍事力を弱体化する必要があるとの考えが強まっていた。また第二次中東戦争の際、アメリカに強い批判と停戦要求を受けた経験から、アラブを叩くに当って、アメリカに対し事前に十分の根回しを行った。

一方アラブは、イスラエルとの本格的な戦争を望むものはほとんどいなかったため、軍事的な準備は整っていなかった。そして1967年、こうしたイスラエルとアラブ諸国との間に依存していた不均衡を背景に、第三次中東戦争(六日間戦争、六月戦争)は勃発した。開戦の日の6月6日の朝、イスラエルはまずその空軍力によってエジプトを急襲し、次いでヨルダン、シリアに対し、電撃的な攻撃を放って、わずか6日のうちに、これらアラブ各国に壊滅的打撃を与えたのである。

そしてこの戦争の結果として、イスラエルはガザ地区とヨルダン川西岸地区の支配権を獲得してパレスチナを統一、シナイ半島ゴラン高原を軍事占領下に置いた。これは戦争前の領土の三倍を超える。またこの戦争においても、40万人以上の新たなパレスチナ難民が発生した。

またこの戦争でイスラエルがヨルダン川西岸、ガザ回廊、ゴラン高原、シナイ半島を占領し、東エルサレムを併合したことを受けて、国連安保理決議242号37が決議された。イスラエルに占領地からの撤退を求め、アラブ諸国にはイスラエル国家を承認し、共存を受け入れることを求めている。しかし、イスラエルが撤退すべき占領地の範囲が曖昧であり、またパレスチナ人は難民として言及されているだけで、民族自決の権利を正式に認められてはいない38

イスラエルが勝利に酔っていたときに次のような意見広告が、イスラエルの日刊紙「ハアレツ」に著名入りで掲載された。私達は自衛する権利があるが、だからといって他者を抑圧する権利を持っているわけではない。



占領は外国勢力による支配を意味する。

外国勢力による支配は、抵抗運動を生む。

抵抗運動は、それへの弾圧を生む。

弾圧はテロと報復テロを生み出す。

テロの犠牲者は、ほとんど罪のない人々だ。

占領地を抱えることは、私たちを殺人者の国民に変える。

ただちに占領地から撤退せよ!



イスラエル左派によるこの意見広告は、世論の激しい攻撃を受けた。続いて予定されていた広告は、新聞社から掲載を断られた。しかし、この35年後の現在の状況は、この意見広告の内容が正しかったことを証明している39

またこの時期に「イスラム原理主義」40や「シオニズム主流派」41に反する「修正シオニズム」42も台頭してきていた。197096に発生したPLOの過激派PFLPによるイスラエル機の連続ハイジャック事件により、国内にPLO本部を置くヨルダンは窮地に追いやられ、フセイン国王は激怒してパレスチナ・ゲリラへの攻撃を開始した。それによってヨルダン政府とパレスチナ解放機構(PLO)との内戦となった。ヨルダン内戦である。

9に発生したことから黒い九月事件(ブラック・セプテンバー事件)と呼ばれることもある。この内戦の結果パレスチナ人死者は2万人を数え、PLOはヨルダンを追放された。そしてレバノンのベイルートに本拠を移すことになる。やがて同じ名前のパレスチナ人テロ組織が誕生し、これが1972年9月にミュンヘン・オリンピック村を襲撃し、イスラエル選手団に犠牲者が出ることになる43

アラブ諸国は、イスラエルが第三次中東戦争の占領地から撤退しさえすれば、イスラエルの存在を認めてもいいという現実路線に傾いていった。そしてエジプトではサダト大統領が就任した。サダトはエジプトの経済発展に強い関心を持っており、イスラエルを相手に何回も戦争を続けても、多くの死傷者を出し、多額の物的損害をこうむるだけであるとし、イスラエルとの和平交渉を進めていった。

しかし、イスラエルやアメリカは和平に対し期待したような動きを見せなかった。そしてシリアがイスラエルに対する戦闘力強化の必要性を感じているのにソ連は目を向け、エジプトに対しても武器の供給を拡大し、中東における足場を固める方向に進んでいった。こうして、アラブ側にとって軍事的に有利な条件が整っていくにつれ、サダートは頓挫した和平外交を復活させる目的でイスラエルとの戦争の可能性を口にするようになっていった。

またイスラエルの油断と情勢判断の誤りに助けられ、エジプトとシリアは計画通り開戦に向かって突き進んでいった。そして1973年10月6日、ついにエジプトとシリアは、それぞれシナイ半島とゴラン高原において、イスラエルに対して奇襲攻撃を仕掛け先頭に突入した。こうして第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争、10月戦争、ラマダン戦争)は勃発した。

この戦争でイスラエルは敗北したわけではなかったが、初めて経験する勝利なき戦争だった。この時に国連安保理決議338号44が成立した。これは第四次中東戦争が起きたことを受けて、即時停戦要求と国連安保理決議242号にもとづく和平の呼びかけを再確認したものだった45

また第四時中東戦争の時に中東の加盟6カ国がアメリカとその支援国に対し、石油価格の21%値上げを宣言した。同時に石油輸出国機構(OPEC)加盟国10カ国が石油産出量5%削減を決めた。これら一連の措置は石油武器として中東戦争を支援する「石油戦略」とよばれる。停戦後生産削減・禁輸措置は緩和されるが価格はさらに引き上げられ、それまでほとんど変動のなかった原油価格はわずか3ヶ月ほどで3ドルから11.65ドルに急騰した。第一次石油危機(オイルショック)である46

パレスチナ難民が生まれてからこのときすでに25年が経過していたが、パレスチナ解放は遠のくばかりであった。こうした中で、イスラエルの存在を承認し、占領地撤退を求めるという現実的要求を考えるべきではないか、という議論が起こる。こうしてヨルダン川西岸地区とガザ地区にパレスチナ国家を建設するという「ミニ・パレスチナ国家」案が浮上した。

しかしこの現実路線に「拒否戦線」を引いて激しく対立した勢力もいた。彼らに言わせると「ミニ国家」では離散したパレスチナ難民を収容することができないし、問題を生み出したシオニスト国家イスラエルを承認することになるということだった。

PLOがヨルダンを追い出され、レバノンのベイルートに拠点を移していたことで、レバノンはパレスチナ人のゲリラ基地となっていた。そしてゲリラ活動によってイスラエルに犠牲者が出るとイスラエルはレバノンのパレスチナキャンプだけでなく、レバノン人の村や町も攻撃した。

そしてイスラエルの攻撃を受けて村が破壊され、家と畑が焼かれた農民は、都市周辺のスラムに流れ込んだ。これらの農民はイスラム教シーア派の貧しい人々が多かった。焼け出されたこれらの人々の中には、PLOがイスラエルを挑発するからこのような目にあうのだ、とパレスチナ人を憎む人も出てきた。それがのちになってシーア派の「アマル」47という民兵組織による、パレスチナキャンプ攻撃につながっていく。

またレバノンにおいて、マロン派キリスト教徒のピエール・ジュマイエルによってナチスを真似たキリスト教マロン派の右翼政党であり民兵組織の「ファランジスト」48がつくられた49。そして1975年4月13日、非武装のパレスチナ人を乗せたバスが「ファランジスト」民兵に待ち伏せ攻撃され、26人が殺され、29人が負傷した事件をきっかけに、レバノン内戦が勃発した。

この内戦の背景には、第一に、少数派ながら政治・経済の分野で有利な地位を占めてきたキリスト教徒と不利な立場に不満を持つ多数はイスラム教徒の対立がある。つまり、レバノン国内の階級対立と宗教対立が部分的に重なりあう構造である。第二は上記でも述べているが、レバノンに二十権力状況を生み出している、PLOの政治的・軍事的な影響力それ自体に対する反発、また、彼らのイスラエルに対するゲリラ攻撃へのイスラエルの報復攻撃がある。

そして「レバノン国民運動」を中心とするイスラム教徒=パレスチナ連合(左派)と、ファランジスト主導のマロンは民兵「レバノン軍団」を中心とするキリスト教徒(右派)の対立を軸とする激しい構想が拡大していった。そして左右両派の勢力は拮抗し内戦は長期化・泥沼化している中で、イスラエルは介入の機会を狙っていた。

そしてこの内戦は、2万人の死者を出して1976年11月に終結した。新しいレバノンの陰の支配者は、シリア大統領アサドだった。1978年9月17日にキャンプデービッド合意がアメリカのカーター大統領、サダト大統領、ベギン首相の三人によって発表された。この合意は、エジプトとイスラエルの平和条約締結と、パレスチナ自治交渉という二つの内容を持っていた。そしてこの合意は、実質的にイスラエルから南の大敵エジプトの脅威を取り除いた。これによってイスラエルは北の敵(レバノンのPLOとシリア)へ全面戦争を行う準備を整えたのである。

そしてイスラエルは、PLO壊滅と中東の新秩序構築という野心的な目的を達成するために、1982年6月4日と5日、イスラエルはレバノン南部に大部隊を進行させる本格的な戦争を仕掛けた。レバノン戦争(第五次中東戦争、ガリラヤ平和作戦、シャロンの戦争)である50

イスラエルはエジプトのことを全く気にしないで、全軍を北だけに集中することが出来た。PLOの兵力は1万2000~1万4000人、一方のイスラエルは予備軍まで入れると50万近く、そして空軍、機甲部隊、とも圧倒的な兵力を誇っていた。開戦の理由は、イスラエルの駐英大使が何者かに襲撃されたからだとしていたが、調べればおかしなことばかりであった。PLOの犠牲者はガリラヤ地方ではほとんど出ていなかったのである。

また大イスラエル主義者シャロン国防相が描く構図は壮大なものだった。レバノン奥深くベイルートまで攻め込み、ここに本拠地を置く政治・軍事組織としてのPLOを壊滅させ、ガザ地区のパレスチナ勢力の士気を奪い、抵抗を粉砕する。そしてレバノンに駐在するシリア軍を追い込む。

そして結果的にレバノンとヨルダン川西岸・ガザ地区のパレスチナ人をヨルダンに逃げ込み、そこがパレスチナ人国家となることにより、イスラエルは国際世論の非難を受けずにヨルダン川西岸・ガザ地区を併合する、というものだった。

そして無差別爆撃によってレバノン南部のパレスチナキャンプは瓦礫に変わっていた。レバノン人の町や村も炎上した。この爆撃は、一般市民の住宅だろうが、基地だろうが関係なく、病院も学校もターゲットにされた。そして南レバノンから、家を失った難民がベイルートに流入しパレスチナキャンプの人口は膨れ上がった。8日には国連のイスラエル軍の撤退を要求する国連安保理決議は、アメリカ拒否権で否決した51

家を失った難民の数は60万人にもなった。この日の爆撃で1500人の市民が殺され、触れただけで爆発するクラスター爆弾もばら撒かれ、逃げまどう人々がこれに触れて爆死した。レバノンは、かつてのベトナムがそうであったように、アメリカの最新兵器の実験場となった。劣化ウラン弾52、クラスター爆弾53、黄燐爆弾54などの残虐兵器が使用された。

これらのほかにもコンクリートの壁を貫通して爆発するためシェルターに逃げ込んでもやられてしまうシェルター専用弾や一瞬にしてビル一つを破壊する真空爆弾なども使用された。そしてこの戦争後イスラエルの兵器メーカーは「レバノンでの優秀性が実証されたイスラエル製爆弾、兵器をどうぞ」と世界にコマーシャルをうったのである。またイスラエル軍の最新鋭戦車メルカバには、日本の三菱製の暗視スコープが用いられていた。

1982年6月14日、イスラエル軍とレバノン右派民兵ファランジストは、公然と共同作戦を取り始めた。15日までの死者はレバノン警察が確認しただけで9,583人、負傷者は1万6,608人。病院は入院患者の90%が一般市民、60%は女性と子どもと発表した。

イスラエル軍がレバノン南部を平定するに伴い、パレスチナキャンプの病院の医師たちが、逮捕され、拷問されていった。またイスラエル軍はレバノン人捕虜には裸の背中に黒い×印を、パレスチナ人には白い×印をつけた。これはナチスがユダヤ人にダビデの星印をつけることを強要したことをほうふつさせ、世界中の避難を浴びた。

ベイルートにはパレスチナ人のほかに40万人のレバノン人がいた。イスラエル軍は停戦違反を繰り返しながら、ベイルート包囲を完成させた。そして1982年6月27日、700台の戦車、210基の榴弾砲が集結し、ベイルートを瓦礫に変えた。国際赤十字の緊急物資も、世界各国からの援助物資も、ベイルート搬入を阻まれた。

そしてレバノン国民の中にPLOがいるから犠牲者が出るのだという空気が広がっていった。そして撤退を迫られたPLOは条件付き撤退案を発表した。しかしイスラエルの第二派の大爆撃が最大規模の激しさで休みなく続いた。世界中がイスラエルを避難したが、具体的に手を差し伸べる国はなかった。PLOは実質的に世界中から見捨てられていたのである。

PLOは最後の要求として、パレスチナ人の生命の安全の保証と威厳ある撤退を求めた。こうして死者1万9085人、負傷者3万302人、孤児となった子ども約6000人、家を失った人約60万人を出したレバノン戦争は、一応の終結をみたのである。

そしてこのレバノン戦争を機に、イスラエルではパレスチナ人との対話、PLOとの交渉、占領の終結を求める「ハト派」と、シャロン将軍らの強硬策を支持する「タカ派」へ二極化が進むことになる。PLOの撤退とレバノン左派民兵組織の武装解除によって、ベイルートの難民キャンプのパレスチナ人は丸裸で占領軍と向き合うことになった。

さらにパレスチナ人住民の安全を約束したはずの国際監視軍が定められた駐留期間をかなり残し突然撤退していった。1982年9月10日にアメリカ軍が、11日にはイタリア軍が、12日にはフランス軍がベイルートを去っていった。そして丸裸のパレスチナキャンプがイスラエル軍に完全包囲され、そこにレバノン右派民兵組織が導入されパレスチナ住民の虐殺が始まった。サブラ、シャティーラ大虐殺である。

3日間に渡りファランジスト党民兵は、「休憩と食事」以外は、睡眠時間さえ惜しんで残虐の限りを尽くした。イスラエル兵は、民兵に弾薬と食事を与え、壊れた武器を交換してやり、夜間は照明弾を上げ続けた。さらに、徐々に包囲を狭め、被害を拡大するために散在する遺体や崩れかけた家の入り口にブービートラップを仕掛けて回った。大虐殺による死者、重傷者の数は、子供、老人、女性を含めて1000人を超えると言われる。

レバノン戦争が終わってしばらくすると、自爆テロが起こった。代表的なのがベイルートにおけるフランス軍兵舎爆破(72人死亡)、アメリカ軍兵舎爆破(237人死亡)、イスラエル軍兵舎爆破(60人以上死亡)である。

しかしパレスチナ難民キャンプでは、連日のように人々が連れ去られ、拷問され、殺されていた。ラシディーエ・キャンプでは2万人の難民がシーア派イスラム教徒のアマル民兵によって、2ヶ月も閉じ込められていた。サブラはアマルの攻撃で壊滅した。

そしてシャティーラでは多くの難民が脱出したが、4000人は地下の避難所に追いやられ、1986年12月1日までにキャンプの60%が瓦礫となった。さらにブルジバラジネ・キャンプは2万5000人以上が約半年間閉じ込められ、化学爆弾が投下され、犠牲者の葬列にまで砲弾が落ち、1065軒の家屋が破壊された55。難民キャンプの状況は一向に好転しなかったのである。



インティファーダ、和平

1987年12月8日にインティファーダ(民衆蜂起)が始まった。また「石の抵抗」と呼ばれる。パレスチナ人の抵抗運動である。戦術を石に限定しており子どもたちや女たちも街頭に出て石でイスラエル軍に対抗した。そしてこのインティファーダは拡大するばかりで、終わりがなかったのである。占領地に住む人々は、アラブ周辺国やいなくなったPLOなどに頼ることもせず、自力で開放を目指した56

そして占領地の住民を弾圧するイスラエル軍と、その占領に反対して抵抗運動を繰り広げるパレスチナ人、という印象が世界中の人の心に強く刻まれた。インティファーダはメディアを利用した闘いだったのである。イスラエルによる暴力のエスカレートで、パレスチナ人による抵抗も激化した。インティファーダは誰にも押さえつけられない規模に膨れ上がり、より攻撃的な性格を増していった57

またこの時、ムスリム同胞団ヨルダン支部のアハメド・ヤシン師が設立したユダヤ人に対する抵抗組織である「ハマス」58が登場した。彼らはイスラエルを決して容認しない、断固たるイスラム原理主義者たちだった。PLOやパレスチナ国家を絶対に認めないリクード党と裏表のような存在である。

そしてインティファーダの動きを利用して台頭したハマスの断固たる姿勢と、一方での難民への人道支援活動は、パレスチナ人とアラブ諸国の喝采を浴びた。また、パレスチナの一員としてユダヤ人との共存を認めるPLOの国民憲章にも反した姿勢を示していた59

さらにこの頃、アラビア湾岸において、中東紛争の行方に直接、間接の影響を及ぼした大きな事件が発生した。それは、イラクのクウェート侵攻を原因としてアラビア湾におい勃発した湾岸戦争であった。この戦争は、国際社会を大きく揺さぶる事件であったが、中東和平を前進させる点からも、無視できない影響力を持つものだった。

イラン・イラク戦争で8年間に渡って消耗戦を継続し、イランの脅威から湾岸諸国を守ったと自負するイラクは、戦争によって疲弊した国家財政を立て直すため、引き続き湾岸諸国から資金援助を得ることを希望し、要求していった。しかし、このようなイラクの要求に対する湾岸諸国の反応は、冷たかった。特に、隣国クウェートについては、イラクのさまざまな要求を完全に無視した。

そしてクウェートのこうした対応に腹を据えかねると見たイラクは、ついに1990年8月にクウェートに突如進撃し、瞬く間に軍事占領していった。国際社会はこの事件に驚き、イラクの行動を非難し、経済制裁やその他の決議を採択していった。しかしイラクは国連の撤退要求を無視し続けた。

そして1991年1月15日のクウェートからの撤退期限が来ても、イラクが依然として撤退を行う意向を示さないのを見定めるや、その二日後、アメリカを中心とする多国籍軍は、イラクに対し「砂漠の嵐作戦」による総攻撃に打って出た。そして2月28日、イラク側は死傷者十数万人、多国籍軍は死者149人、負傷者513人で停戦となった。この戦闘を通じて、PLO、ヨルダン、イエメンなどの一部の国を除くほとんどのアラブ諸国は反イラクの立場を取り、多国籍軍に加わった。

ところが、クウェ-ト侵攻への欧米の対決姿勢に対してサダム・フセインはパレスチナ問題を持ち出した。アメリカを中心とした国際世論はクウェートからの撤退を求めた国連決議を守るようイラクに圧力をかけた。これに対してイラクは、イスラエルの占領地撤退を求めた国連決議をなぜイスラエルに要求しないのか、ダブルスタンダード(二つの基準の使い分けではないか)であると主張した。

これはパレスチナリンケージと呼ばれた。終戦後、湾岸戦争で中東の実権を手にしたアメリカは、中東の不安要因の一つであるパレスチナ問題の解決に踏み出す必要に迫られた。そして1991年3月、ブッシュ米大統領は年頭教書を発表し、そこでイスラエルの占領地からの引き上げとイスラエルの国家の承認という、国連決議242、338を基礎とした和平案を提唱した。そして10月にスペインのマドリードで和平会議が始まった60

またイスラエルは人口問題という深刻な問題に直面していた。イスラエル内部でのユダヤ人とパレスチナ人の人口比率がパレスチナ人に逆転されつつあったのである。ユダヤ人差別と迫害に備えて、ユダヤ人の避難地として国家を作ることが、イスラエルのシオニズムの目的であり、そのためにユダヤ人が多数を占める国が必要だからである。

そして1990年から3年間、旧ソ連からのユダヤ移民が急増という大きな変化がおきていた。この移民の大量流入が新たな問題となった。人口増加に伴い、社会に厳しい競争をもたらし、また後から移民としてやってきた旧ソ連のユダヤ人との間で対立や差別が生じた。また旧ソ連からの移民であるユダヤ人はシオニストではないため、占領地の必要だとは考えなかった。むしろ戦争の火種を作る厄介な場所と見ていた。

そして平和になれば経済に活気が出て仕事にもつけるだろうと考え、和平を結ぶほうが望ましいと思えた。またインティファーダの影響でイスラエルは占領地との境界線を封鎖した。これがまたイスラエルに大きな影響を与えた。占領地が自分達のものではないと考えていったのである。占領地は危険であり行こうとは思わない。そんな場所が自国の一部とは感じられないのである。そして占領と植民地が崩壊していった。

崩壊の別の原因として、パレスチナ人やアラブ側に立っていた旧ソ連が崩壊したことによって、中東全域の管理がアメリカの手に移った。またアメリカがイラクを打ち負かした後、新たな中東の不安定要因が持ち上がった。イスラム原理派と呼ばれるイスラム復興運動やイスラエルを脅かすレバノンの「ヒズボラ」61という強力な組織、また「ハマス」である。イスラム革命の嵐が吹き荒れるとアメリカは警戒した62

そんな中、経済界で和平が進むことで企業に巨大な利益をもたらすのではないかという可能性が出てきた。戦争は軍事産業を潤すが、和平もまた大企業を潤すのである。そして経済にどんな大きな影響が及ぼされるかが、後の和平を進める大きな要素となった。

和平が進み、オスロで何度も集まり当事者達で話し合い、ガザとジェリコの先行自治の案が出た。1993年9月13日、ワシントンでラビン首相とアラファト議長が握手し「オスロ合意(パレスチナ暫定自治協定)」63共同宣言に調印した。この協定の内容は、前文で平和共存・包括的和平・歴史的和解をうたい、第一条以下、最終的にはエルサレム・難民(第三次中東戦争以降に限る)・入植地・境界・治安問題などの懸案が交渉の対象になり、1999年4月までに最終確定し、暫定自治を終了する。

このため立法権と警察権をもつ評議会をつくり、当面、ガザとエリコに自治権限が委譲され、イスラエル軍は4ヶ月以内に撤退し、パレスチナ警察に治安を引き継ぐ。ただし、補足の項で、入植地の治安はイスラエル軍が守るとし、イスラエル及びおパレスチナ全体の国防と外交はイスラエルが責任を負うとしている。

1994年の「ガザ・エリコ先行自治協定」に基づき。ガザとエリコからイスラエル軍が次第に姿を消し、自治警察が治安を取り仕切り、街角にはパレスチナの旗も公然と掲げられるようになった。

翌年には占領地を、A地区(行政と治安をパレスチナ側が行う、パレスチナ自治区)、B地区(パレスチナ側が行政を、イスラエル側が治安を行う)、C地区(イスラエル側が行政と治安を行う)に分ける「オスロ合意Ⅱ(拡大暫定自治協定)」が結ばれ、スターと時点では非占領地の40%に過ぎなかったが、自治区は着々と拡大してゆくかに見えた。

またこの協定がパレスチナの独立の道を閉ざしたとも考えられる。経済的にも軍事的にも完全にイスラエルに依存する社会が「自治」の名目で誕生したのである。パレスチナ人は独自の政府を持つことが出来るが、実際には軍も無いし、政策も立てられないし、イスラエルに完全に頼ることになる。

さらに、オスロ合意が調停されたにもかかわらず、ガザからイスラエル軍は撤退しておらず、未だに多くの入植地が存続し、それを守る形でイスラエル軍が配備されている。そして土地が没収されたり家屋がブルドーザーで破壊されたりと、和平ムードの裏でまるで挑発するかのような行為が続いていた64

協定をまやかしだとするパレスチナの抵抗グループの動きによって、占領地に入植しているユダヤ人達は治安を心配してオスロ合意に猛反対し、また、あくまでパレスチナは神の与えた土地だとするユダヤ教徒過激派も、パレスチナの旗を焼くなど、激しい抗議行動を展開した。

そんな中、1994年2月25日、西岸地区のへブロンで礼拝中のイスラム教徒数百人に入植地の医師で極右シオニスト・ユダヤ教過激派の「カハ」という組織のバルフ・ゴールドシュタインが銃を乱射し、60人もの人々を虐殺した「ヘブロン虐殺事件」が起きた。またエルサレムの高校生の半数以上が、この虐殺事件を支持したのである。多くのパレスチナ人を殺したい、と頭の中で考える右翼の人は多い。

しかし、それを実行する人間はいない。ゴールドシュタインは、少なからぬ人々の意識下の願望をかなえてみせたのである。しかしイスラエル国内ではゴールドシュタインに批判的な住民が圧倒的に多かった。また和平の動きが伝えられると、土地の値段の高騰や建設ラッシュなどが進み景気が活発化した。

また第三次中東戦争のときの参謀総長だったラビン首相は、長い間パレスチナ人を徹底的に弾圧することが、イスラエルの安全を守ることだと信じていた。しかしやがてそうしたやり方では安全を守れないと認めざるをえなくなった。そこでラビン首相はイスラエルの安全を守る最高責任者として、PLOとの和平を決意したのである65

しかし1995年、イスラエル国内には自治拡大に反対する過激はグループが、各地でラビン首相に反対する抗議集会を開くようになった。そんな中、1995年11月4日、テルアビブの和平集会でラビン首相は「私は27年間戦ってきたが、和平は無かった。今こそ和平を」との趣旨の演説をし、会場から出ようとしたところで、ユダヤ教過激派の青年イーガル・アミールに暗殺された。そして和平に再び暗雲が立ち込めた。

ラビンの死は単なる和平賛成派と反対派の抗争の結果ではない。この問題は宗教的ユダヤ人にとっては和平よりも、もっと大きく大切な、ユダヤ人のアイデンティティの根幹に関わる問題なのだ。神の法と神の国家に実現を目指すユダヤ教超過激派・入植者と、和平を基盤に普通の国家の繁栄を目指す人々との間の「内戦」である。そしてラビンのいう最初の犠牲者が出た66

ラビンの死後はペレスが後を継いだ。しかしラビンと二人三脚で和平を進めていたペレス一人で二人分の仕事をしなければいけなくなった。そして多くの失敗をおかしていく。最初の失敗としてイスラム過激派のハマス軍事部門指導者ヤヒヤ・アイヤシュの暗殺を遂行したことである。

それによりハマス軍事部門を束ねるものがいなくなり過激派のコントロールが出来なくなり、連続自爆攻撃がイスラエルの心臓部を狙った。それにより240人の死傷者が出た。第二の失敗にレバノン南部のイスラム・ゲリラ組織ヒズボラを攻撃したときに、国連基地内に逃げ込んでいた民間人を爆撃し、100人を超す大量殺戮を行ったのである。これによりヒズボラの大反撃をうけ、連日のようにレバノン南部でイスラエル兵が襲われ死んでいった。そしてペレスは国民の支持を失っていった。

ペレスの次にネタニヤフが首相になった。選挙の争点は和平のペレスか反和平のネタニヤフかという構図になるはずだったが、選挙運動ではペレスは「強いイスラエル」、ネタニヤフは「真の和平」を説いた。ネタニヤフは国民の心をつかんだ。「真の和平の道を進もうではないか」と呼びかけた。

しかし、彼の言葉はあくまで自分たちに有利な和平、自分たちが妥協したり、失ったりすることのない和平を意味していた。そして言葉の意味どおりイスラエルのためにエルサレムの拡大や入植地の建設などを行った。そうして本来の和平を葬り去ろうとした。それに対してイスラエルの和平推進は講義の声を強め反対した67

アラブ諸国なども、ネタニヤフ首相の登場以来、和平交渉が円滑に進まなくなった状況から、対立候補の労働党党首バラクに強い希望を示した。そして次の選挙戦では、最終的にネタニヤフ首相とバラクの一騎打ちとなり、1999年5月、ネタニヤフは選挙で労働党のバラクに敗れた。

選挙運動中から和平の推進に積極的な姿勢を見せていたバラク新首相は、就任後は、内閣を発足させ、クリントン政権と和平問題について協議した。そして中東に帰って、アラファト議長との会見や、エジプトのムバラク大統領およびヨルダンのアブドラ国王との会談などを次々に実施し、和平推進にきわめて積極的な行動をした。このようにネタニヤフ首相の時代に完全に停滞していた和平のプロセスを再び軌道に乗せようとした。

しかし、2000年7月のキャンプデービッド会議がエルサレム問題で妥協が出来ないパレスチナの立場に加え、難民の帰還問題、入植地問題などが大きな障害となって決裂した。またイスラエルの右派はバラクが和平のために多くの妥協をしようとしていることに危機感を募らせていた68

そして2000年9月28日、労働党の和平交渉を挫折させるためにリクード党党首アリエ・シャロンがエルサレムのハラムアッシャリーフ(高貴な聖域)に突然踏み込んだ。ここにはアルアクサ・モスクと岩のドームがあるイスラム教の聖地である。これは多くの反対を無視した、明らかな挑発行為だった。これに対し、翌日に2万人のイスラム教徒が抗議行動を開始し、嘆きの壁にお祈りに来ていたユダヤ教徒に投石した。

再び石の抵抗が始まったのである。この民衆蜂起は、「第二次インティファーダ」あるいは「アルアクサ・インティファーダ」と呼ばれる。これにより再び対立が激化し、多くの犠牲者を出した。和平交渉においてもうまくいかず、結局バラクの最終提案をアラファトは受け入れることが出来なかった69

2001年1月、バラクの提案をアラファトは拒否した。その直後の2月に首相公選によって、シャロンが圧勝した。バラクは和平派に失望を与えてきたため投票を棄権する人が多かっためである。シャロン政権発足後、イスラエルから反対勢力を一掃することになった。

その後、エルサレム拡張と入植を進めた。占領地を返還できないように既成事実を進めることが目的だった。パレスチナの村々への道にはブロックが設けられ、車の通行は禁止され、検問所が至る所に設けられた。村々は陸の孤島となった。シャロンにとってのパレスチナ問題の解決の最良の方法はパレスチナ人がいなくなることだった。そのため、シャロンはアラファトの政治的影響力を剥ぎ取り、オスロ合意を破産させようとした。

そんな中、2001年9月11日、ニューヨークの貿易センタービル、ワシントンの国防総省に、ハイジャックされた航空機が突っ込み、3000人以上が殺害された。そしてブッシュ大統領はこれを戦争と位置づけ、アルカイダグループのリーダー、オサマ・ビンラディンを首謀者と名指しして、軍をアフガニスタンに差し向け、タリバン政権にビンラディンの身柄を引き渡すように迫った。タリバン政権はこれを拒否した。

そして10月7日深夜に米軍は空爆を開始した。アフガン戦争「テロに対する戦争」が始まったのである。このテロに対するアメリカの断固たる姿勢は、イスラエルを勇気づけた。テロにさらされる国民の身になって理解してくれるようになったと考えたのである。しかし、パレスチナ人を攻撃し、占領を続けるイスラエルの行為を黙認し続けていることが、9月11日の異常な行為の背景にあるのではないか。

そしてアメリカがテロリスト撲滅という理由でアフガニスタンを爆撃して良いのなら、イスラエルもパレスチナ自治区を爆撃して良いはずだと考えた。このような背景から、イスラエル軍は「テロに対する戦争」に同調して、10月2、3日にガザに侵攻した。これによってテロが増加し、それに対する報復も起きた。そしてシャロンは緊急安全保障閣議でアラファト議長との関係断絶を決定した70

パレスチナ側の報復の間隔が非常に狭まった。イスラエルがパレスチナ人の暗殺をしたら、その数時間後には報復を覚悟しなくてはならなかった。そしてイスラエル側の打撃が大きくなった。イスラエル軍は頻繁に空爆やミサイル爆撃を繰り返したが、打つ手がなくなってきた。そしてイスラエルのユダヤ人は心理的に追い込まれてきた。

インティファーダの時代は終わった。そして過酷なパレスチナ独立戦争の時代に突入したのである。自爆や銃による攻撃は、ハマスとイスラム原理主義の武装過激派と、PFLPやDFLP、そしてファタハの武装組織によって行われている。これらの組織は、強力な武器によって攻撃をし、圧倒的有利な立場にあったイスラエル軍を驚愕させた。こうしてシャロンのやり方ではイスラエルの安全は保てないと考える人が増えていった。

しかし、イスラエルとパレスチナの兵力の差は歴然であった。そして、圧倒的に多くのパレスチナ人が、イスラエルに対抗するにはやはり自爆テロしかないと考え始めたのである。そして自爆テロなどの恐怖からキブツや入植地に行きたがらないユダヤ人が増え、危険な国境付近から離れていった。イスラエルは国境から数キロ小さくなっていった。大イスラエルを唱えて実行しているシャロンは、イスラエルを小さくしてしまったのである。

自爆テロは退路を作る必要が無いため実行が簡単で、そして死ぬ気の実行犯を防ぐことは困難であるため、イスラエル人に防ぎようが無いという諦めの感情を抱かせた。そしてシャロンはイスラエルの安全保障のために占領地内にパレスチナ自治区との緩衝地帯を設ける案を発表した。これは自治区と主要都市を分断・隔離し、監視網のめぐらされた、200キロにも及ぶ塀や地雷原で遮断された地帯となるという71

シャロン首相の支持率は急激に下がっていった。イスラエルはアラファト議長府をミサイルで攻撃した。そして緩衝地帯をつくるために、ガザの国境付近のパレスチナ人家屋を次々と破壊していった。そしてイスラエルに対するパレスチナの報復の感覚がさらに短くなった。攻撃とそれに対する報復が激しさを増していった。

それでもなお、シャロン首相は、相手が「悪かった、許してくれ」というまで叩きのめす、と言った。アラブ連盟は首脳会議で「ベイルート宣言」を採択した。それはイスラエルの第三次中東戦争での全占領地からの撤退、パレスチナ難民問題の公正な解決、東エルサレムを首都とするパレスチナ国家の樹立、アラブ諸国とイスラエルとの包括的和平を結び、安全を保障することを決議したものだった。

しかし時は遅かった。イスラエルはアラファト議長を敵と宣言し、予備役2万人を招集し「守りの壁」と呼ぶ大規模軍事作戦を開始したのである。「守りの壁」作戦は、2002年4月14日まででイスラエル軍死者29人、負傷者125人、パレスチナ人死者188人、負傷者599人、逮捕者4,230人を出した。(ジェニンのパレスチナ人死者は含まれない)

被害が大きかったのは、ナブルスとジェニンである。ジェニンは壮大な100メートル四方に及ぶ瓦礫の墓場となった。足首や内臓が散乱していた。浴室に逃げ込んだ女性が射殺されたり、パレスチナが降伏した後、建物がブルドーザーで破壊され、生き埋めにされたり、銃撃から逃げて高い窓から次々と子供たちが飛び降りたりした。

このような難民キャンプでの作戦に対して世界中から非難が高まり、デモが起きた。このような状況に「テロに対する正義の戦争」を掲げたアメリカは、シャロンを説得できる論理を持たなかった72

こうしたなかで、解体したオスロ合意に代わる紛争解決の枠組みとして「ロードマップ」と呼ばれる提案がなされた。停戦、暫定国家を経て、2005年にパレスチナ独立国家樹立を目指すというもので2003年4月30日に正式提案された。オスロ合意に無かった「パレスチナ独立国家」を明記した点が注目された。

そして5月に、イスラエルは留保つきで、パレスチナ側は無条件で、「ロードマップ」受け入れを表明する。6月4日、ブッシュ大統領立ち会いの下、ヨルダンのアカバで、パレスチナ自治政府のマハムド・アッバス首相とシャロン首相が会談。

アッバスは「武装インティファーダ」の終結を宣言、シャロンは「パレスチナを占領することはイスラエルのためにならない」を演説して、ロードマップに則して交渉を進める方針を表明した。しかし、この後も、イスラエルの暗殺作戦とパレスチナ過激派の自爆攻撃の応酬が続き、交渉が行き詰まりロードマップは宙に浮いてしまった。73

そしてシャロン首相は新たな政策を打ち出した。この新政策は、西岸・ガザ地区のうち比較的パレスチナ人口密度の高い諸地域を、イスラエルから物理的に切り離すもので、「分離計画」または「シャロン・プラン」と呼ばれる。右派やリクード党などの反対にあったが、世論の多数は支持に傾いた。

そしてガザ地区の17入植地全て撤去、7500人の入植者は、西岸地区の入植地に移転させた。そして西岸地区で全体の40%をパレスチナ人地区として「分離壁」で囲い込み、残り60%をイスラエルが保持した。「分離壁」は、高さ8メートル前後のコンクリート壁、鉄条網の柵、幅100メートルほどの無人地帯、深さ数メートルの豪などの組み合わせによる障害物を連ねたもので、占領地のパレスチナ人居住地区と入植地やイスラエルの町などを物理的に分断するものである。

間隔を置いて監視塔が建てられ、一部には通電したセンサーが設置されている。所々に設けられた門をイスラエル兵が警備、一定の時間帯に開かれ、イスラエル当局の許可を得られたものが、入念なチェックの後、出入りすることが出来る。壁の中はまるで「ゲットー」である。

この政策によりパレスチナ人の抵抗運動が激化し、イスラエル人や外国人の平和活動家も工事現場での抗議行動に加わり、国際問題に発展し、国際的な非難にさらされた。この計画の目的は、和平プロセスを凍結して、パレスチナ独立国家の樹立を阻止し、難民問題やエルサレム問題の交渉をストップさせることであった。これは事実上ロードマップの否定を意味する。

こうしたなか2004年10月半ばにアラファトの健康悪化が伝えられ、パリ郊外の軍病院に入院した、集中治療を受けたが、75歳の生涯を閉じた。11月11日に死亡を発表したが死因は公表されなかった。和平は進展せず、テロや報復攻撃などは後を絶たず、パレスチナ側の経済悪化、イスラエルでの貧困層の増加による社会の荒廃など、トンネルの向こうはまだ見えない74



第3章   イスラエルパレスチナ問題の現在、そして未来

第2章では触れられなかった2005年以降のパレスチナの情勢について、近年のニュースや新聞記事を抜粋して第1節で掲載している。第2節、3節では、イスラエルパレスチナ問題の歴史やその複雑な内容を踏まえ、自分なりに紛争が終わらない理由やそれを解決に導くためにはどうすべきかについて考察している。



ニュース、記事(2005年~2007年現在)

○イスラエルパレスチナの動向(政治)

●イスラエルとパレスチナ、初の定期会談

【カイロ=村上大介】イスラエルのオルメルト首相とパレスチナ自治政府のアッバス議長は15日、西エルサレムのイスラエル首相官邸で会談した。和平仲介を目指すライス米国務長官が3月下旬、双方から2週間に1回の定期会談を行うとの合意を取りつけたもので、2人は2週間後にヨルダン川西岸のパレスチナ自治区エリコで次回会談を行うことで合意した。会談の内容は明らかにされていないが、イスラエル側によると、自治区の治安問題などが取り上げられた。またオルメルト首相は、現時点でパレスチナ難民の帰還権やエルサレム問題などを扱う最終地位交渉に応じる用意がないことを明確にしたという。75



●イスラエル、ガザで強制退去に着手/38年後の放棄、冷徹計算

ガザ地区からの撤退反対を叫ぶ入植者の強制退去に踏み切ったイスラエル。一九六七年の第三次中東戦争で占領したガザを約三十八年後に手放し、領土拡大を安全保障の担保にしてきた同国は大きな転機を迎えた。入植者の父・シャロン首相による“約束の地”放棄の裏には、戦略的価値に乏しく、経済的・軍事的負担がかさむ「厄介者」の切り捨てを狙った冷徹な計算が潜む。ガザは撤退の果実を受け取るのか、それとも「巨大な監獄」と化すのか。76



●シャロン・イスラエル首相が生命の危機/剛腕倒れ、中東和平漂流へ

イスラエルのシャロン首相(77)が脳出血で倒れた。首相就任から五年。パレスチナ自治区に侵攻し、一九九三年の歴史的な暫定自治宣言(オスロ合意)を崩壊させた半面、占領地だったガザ地区からは一方的に撤退。国際世論を半ば無視し、中東和平の設計図を自ら描いた“剛腕”の危機で、イスラエルだけでなく、首相を敵視しつつも現実的な交渉相手と考えるパレスチナにも衝撃が走った。和平プロセスは当面、漂流必至だ。77



●イスラエル総選挙/和平交渉の時代終止符か

「ヨルダン川西岸の将来への国民投票」といわれたイスラエル総選挙。シャロン首相が病に倒れる前に打ち出した「一方的なパレスチナ分離政策」を掲げる新党カディマが第一党に躍り出た。パレスチナでは、イスラエルの存在を認めないイスラム原理主義組織ハマス内閣が発足。紛争当事者が背を向け合う中、米国は和平仲介の意思も能力も失いつつある。2000年の衝突激化後、双方で四千人以上が死亡した末、「共存」より「絶縁」を選んだ有権者。和平交渉の時代に終止符が打たれるのか。78



●新大統領にペレス氏当選 イスラエル

イスラエル国会は13日、与党カディマ所属のシモン・ペレス元首相(83)を次期大統領に選出した。レイプとセクハラ疑惑で休職中のカッツァーブ大統領の任期満了に伴うもので、ペレス氏は来月就任し、任期は7年。ペレス氏はポーランド生まれで、11歳でパレスチナに移民。1948年のイスラエル建国後、政府や中道左派・労働党の中枢を歩み、84~86年、95~96年に首相を務めた。パレスチナ暫定自治に合意した「オスロ合意」(93年)で、故ラビン首相、故アラファトパレスチナ解放機構(PLO)議長とともに94年のノーベル平和賞を受賞している。79



●パレスチナ自治政府議長、内閣解散と非常事態を宣言

【ガザ 14日 ロイター】パレスチナ自治政府のアッバス議長は14日、イスラム原理主義組織ハマスがガザ地区のファタハ主要拠点をほぼ制圧したことを受け、内閣の解散を決定したほか、非常事態を宣言した。ハマスは、ハニヤ首相はアッバス議長の決定を無視すると表明している。アッバス議長は声明で「ガザ地区での犯罪的な戦闘行為と軍事クーデターを受け、パレスチナ自治政府が管理する全ての地域で非常事態を宣言する」と述べた。80



●パレスチナに2内閣 ファタハ、ハマス アッバス議長、非常事態を宣言

【カイロ=村上大介】パレスチナ自治政府のアッバス議長は14日夜(日本時間15日未明)、イスラム原理主義組織ハマス主導の挙国一致内閣の解散と自治区ヨルダン川西岸とガザ地区全域での非常事態を宣言し、ハマス幹部のハニヤ首相を解任した。これに対し、ハマスは15日未明、ガザ全域を制圧したとし、議長の解散決定を拒否した。今後、ヨルダン川西岸にはファタハ内閣、ガザ地区にはハマス内閣が成立し、パレスチナ自治区は2つの異なる内閣に分断されることが確実な情勢となった。

アッバス議長は西岸の自治区ラマラで、側近を通じて声明を発表し、ガザ地区での「違法な軍事クーデター」を非難した。議長は15日にも、非常事態内閣を任命し、「適切な情勢」になれば早期の評議会(議会)選挙を行うとしている。しかし、ガザ全域を制圧したハマスは、議長の決定について「ハニヤ首相はその地位に留まる」と反発、従来通りハニヤ首相率いる内閣が自治政府の運営に当たるとしている。

ハマスのシャハワン報道官は「正義とイスラムによる統治が実現するときが来た」と表明、今後、ガザ地区でハマスはイスラム色の強い支配を強めてゆくとみられる。ハニヤ首相は14日深夜、ガザ地区で記者会見を開き、議長の決定を「拙速」と非難した。ただ、ハマスが当面、ガザ地区でパレスチナ国家樹立を宣言することはないと述べた。

パレスチナ基本法(憲法に相当)によると、アッバス議長が任命する非常事態内閣は発足から1カ月に限り、ハマスが過半数を占める評議会の承認を得ずに活動できる。だが、議員自体も西岸とガザ出身議員から構成されていることから、評議会が正常に機能することはありえず、アッバス議長も今後、法的手続きにのっとった自治政府運営は難しくなるとみられる。

パレスチナでは、昨年1月の評議会選挙でハマスが圧勝し、3月にハマス内閣が発足したことから、ファタハとハマスの抗争が激化。このため、双方はサウジアラビアの仲介で今年3月、挙国一致内閣を樹立し、局面打開を図ったが、衝突は収まらず、今月9日に本格的な戦闘が再燃していた。81



●パレスチナ非常事態宣言 議長、新首相を任命

【カイロ=村上大介】パレスチナ自治政府のアッバス議長は14日夜(日本時間15日未明)、イスラム原理主義組織ハマス主導の“挙国一致内閣”の解任と自治区ヨルダン川西岸、ガザ地区全域に対する非常事態を宣言し、非常事態内閣の首相に独立系の前財務相、サラーム・ファイヤド氏(55)を任命した。

ガザ地区で続いていた戦闘では、ハマスが15日未明、ガザ全域を制圧したと宣言し、議長令の受け入れを拒否しており、自治区は今後、2つの異なる内閣に分断されることが確実となった。事態を重視したアラブ連盟は15日、外相級緊急会合を開き、米国やイスラエルも対応策を検討する見通しで、国際的な動きも急展開しつつある。

ファイヤドは米国で教育を受け、国際通貨基金(IMF)勤務が長いエコノミストで、今年3月に成立したファタハとハマスの“挙国一致内閣”など2回にわたり財務相を務めた。議長は知米派の同氏を首相に任命し、国際社会からの経済支援再開を取り付けたい狙いだとみられる。

イスラエルの報道によると、同国のオルメルト首相は19日、ワシントンでブッシュ米大統領と首脳会談を行い、イスラエルが代理徴収している自治政府の関税送金問題など、アッバス議長に対する支援策を中心に協議する。議長率いるファタハが影響力を保つヨルダン川西岸に限って一部の送金を再開し、アッバス氏を側面支援する可能性が出てきた。

アッバス議長は14日夜の声明で、ガザ地区での「違法な軍事クーデター」を非難。これに対し、ハマスは「ハニヤ首相はその地位にとどまる」として議長の内閣解任決定を拒否、従来通り自治政府の運営に当たるとしている。ハマスによる制圧を受けて、ガザ地区は15日、平穏を取り戻しつつあるが、一部の住民がハマスの制圧した議長府などで略奪を行い、ハマスが自制を呼びかける事態となった。82



●パレスチナ、非常事態内閣が発足

【ラマラ(ヨルダン川西岸) 17日 ロイター】パレスチナ自治政府のアッバス議長は17日、ファイヤド新首相以下13人の新閣僚を正式に任命し、非常事態内閣を発足させた。非常事態内閣は、イスラム原理主義組織ハマスを排除し、独立派のテクノクラートで構成。内務相には武装勢力出身のヤヒヤ氏を起用した。ファイヤド新首相は「市民の安全が最優先」と述べた。

非常事態内閣発足を受けて、イスラエルのオルメルト首相は、ヨルダン川西岸地域のパレスチナ人が事態の「劇的な」改善が期待できる、と指摘。オルメルト首相の側近によると、同首相はニューヨークで潘基文(バン・キムン)国連事務総長と会談した際に「ヨルダン川西岸に誠実なパートナーが誕生すれば、イスラエルはその誠実なパートナーとなる。誠実かつ責任感のある政府に対し、イスラエルは税金を送金する」と述べた。83



●<パレスチナ>「暫定内閣」が発足 ファイヤド首相続投

【エルサレム前田英司】パレスチナ自治政府のアッバス議長は13日、イスラム原理主義組織ハマスのガザ地区制圧に伴い発令した非常事態宣言の期限が切れることを受け、非常事態内閣のファイヤド首相が続投する「暫定内閣」を新たに発足させた。議長のこうした政治判断には評議会(国会に相当)の承認が必要との議論もあるが、評議会は事実上開けない状況で、議長は正当性を主張していく方針だ。

基本法(憲法に相当)によると、非常事態宣言の有効期限は30日以内で、延長には評議会の承認が必要となる。しかし、評議会はハマスの出席拒否などで事実上、機能停止しており、開催できない状態に陥っている。アッバス議長はハマスがガザ地区を制圧した先月14日、非常事態宣言を発令してハマス最高幹部のハニヤ首相を解任。

議長の出身母体ファタハとハマスの連立政権を解散するとともに、欧米の信頼の厚いファイヤド氏を首相とする非常事態内閣を発足させた。同宣言の満期に伴い、非常事態内閣はいったん辞職。議長が再びファイヤド氏を首相に指名し、新たに「暫定内閣」を発足させた。84



●対イスラエルの攻撃を非難 ファタハ系の180人超誓約書

【カイロ 村上大介】パレスチナ当局者は15日、アッバス自治政府議長率いるファタハ系の武装組織のメンバー180人以上が「イスラエルに対する攻撃」を非難する誓約書に署名し、パレスチナ側がイスラエルに提出したことを明らかにした。フランス通信(AFP)が伝えた。ファタハ系の武装組織、アルアクサ殉教者旅団のヨルダン川西岸ジェニンの司令官らも含まれている。

誓約書を提出したのはいずれも、イスラエル側が「指名手配」した活動家。ファタハとイスラエルは13日、活動家189人について、誓約書提出と引き換えにイスラエル側も追及を停止することで合意。3カ月の猶予期間を経て、ファタハの治安要員になるという。ガザ地区を制圧したイスラム原理主義組織ハマスに対し、西岸を拠点とするファタハのてこ入れを狙った選別的措置だ。85



●イスラエルパレスチナ首脳会談

【AFP=時事】イスラエル首相公邸で行われた会談の席上、握手するオルメルト首相(右)とアッバス・パレスチナ自治政府議長。両首脳は国際社会の経済制裁が続くガザの人道支援などについて意見交換を行った(16日、エルサレム)86



●<イスラエル>パレスチナ囚人釈放 大半がファタハ関係者

【エルサレム支局】イスラエルは20日、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ラマラ近郊のビトゥニヤ検問所で、パレスチナ人の囚人255人を釈放した。パレスチナ自治政府はイスラム原理主義組織ハマスと穏健派のファタハの対立で分裂状態に陥っており、今回の釈放にはファタハが出身母体であるアッバス自治政府議長を支援する狙いがある。釈放された囚人の大半がファタハ関係者であるため、ハマスがファタハを「イスラエルの協力者」とみなし、両者の緊張がさらに増す可能性がある。

釈放された囚人らはビトゥニヤ検問所で家族らと再会した後、ラマラの自治政府議長府でアッバス議長の出迎えを受けた。釈放の対象者は当初男性250人、女性6人だったが、イスラエル当局は治安上の理由から男性1人の釈放を延期した。イスラエル当局は「釈放対象の85%がファタハ関係者」とし、ハマス関係者は含まれないと説明した。これに対し、自治政府当局は「30人のハマス関係者が含まれる」と主張し、ハマスとの緊張の高まりへの懸念をにじませた。

イスラエルは囚人釈放に続き、近日中にヨルダン川西岸のジェリコとカルキリヤで自治政府に治安権限を移譲する方針を明らかにしているが、こうしたアッバス議長支援策がハマスを挑発する恐れも否定できない。19日にはファタハの主要拠点の一つである西岸ナブルスで爆弾を積んだ乗用車が発見され、ファタハはハマスを非難した。イスラエルや欧米がファタハ支持を色濃く打ち出す中で、パレスチナ全体に不穏な空気が覆っている。

アッバス議長は18日の演説で、ハマスによるガザ地区武力制圧を「クーデター」と表現。自治評議会選挙の早期実施を訴えるなど、強気の姿勢を貫いている。だがファタハ支配のヨルダン川西岸と、ハマス支配のガザ地区に分断された現状が続く限り、選挙実施は事実上困難だ。87



●和平協議具体化で攻防=パレスチナで初開催-中東首脳会談

【エルサレム6日時事】オルメルト・イスラエル首相とアッバス・パレスチナ自治政府議長は6日、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区エリコで会談した。両首脳は2000年以降中断している2国家共存に向けた具体的な和平協議再開のタイミングをめぐって見解が対立、この日の協議でも溝は埋まらなかったもようだ。両首脳の会談がパレスチナ自治区内で開催されたのは今回が初めて。オルメルト首相は「今回の会談が、パレスチナ国家樹立に向けた交渉につながることを期待する」と表明し、対話姿勢を積極的にアピールした。88



○イスラエルパレスチナの動向(武力衝突、暴動、テロ)

●ガザのファタハ基地攻撃 8人死亡 ハマス、抗争泥沼化

【カイロ=村上大介】パレスチナ自治区ガザ地区で15日、アッバス自治政府議長の支持母体であるファタハの精鋭治安部隊基地が襲撃され、8人が死亡した。襲撃したのはハニヤ首相が所属するイスラム原理主義組織ハマスの武装部門とみられ、ファタハとハマスの抗争は再び泥沼化している。ロイター通信によると、エジプトで訓練を受けていたファタハ治安部隊450人が15日、ガザ地区に投入された。

襲撃を受けたのは、ガザ地区北部にある自治政府議長の特別警護隊の訓練基地で、武装勢力は迫撃砲やロケット弾で訓練基地に攻撃を開始。AP通信によると、支援に駆けつけたファタハ治安部隊の車両を待ち伏せし、激しい銃撃を加えた。ファタハ側は、ハマス武装部門だけでなく、ハマスが内務省の管轄下に独自に設置した治安部隊が攻撃に加わったと非難したが、ハマス側は攻撃への関与を否定している。このほか、ガザ市でハマス武装部門のメンバーが何者かに射殺されるなど各地の衝突で3人が死亡、内務省がファタハ系とみられる武装組織の銃撃を受けた。

3月にハマスとファタハが挙国一致内閣を樹立した後、内部抗争は小康状態にあったものの、今月11日に衝突が再燃し、ロイター通信によると、これまでに少なくとも20人が死亡した。ガザ地区は、マスクで顔を隠した武装グループのメンバーが闊歩(かつぽ)し、勝手に検問所を設置するなどの混乱状態にある。挙国一致内閣樹立の際に双方の妥協として選ばれた独立系のカワースミー内相が14日に辞任。各武装組織解体や治安権限の一元化の課題も解決できず、期待された挙国一致内閣が失敗に終わりつつあることが鮮明となっている。89



●ファタハ治安幹部自宅 ハマス武装組織が襲撃 5人死亡

【カイロ=村上大介】深刻な内部抗争が再燃したパレスチナ自治区ガザで16日、イスラム原理主義組織ハマスの武装組織がアッバス自治政府議長率いるファタハ系の治安組織最高幹部の自宅を襲撃、警備に当たっていた治安要員5人が死亡した。ロイター通信によると、その他の戦闘などで同日の死者は少なくとも16人にのぼった。

ハマスのハニヤ首相は15日夜、エジプトの仲介で両派が停戦に合意したと述べたものの効果はなく、衝突はさらに深刻さを増している。アッバス議長は非常事態宣言の布告を検討しているもようだ。しかし、双方の武装組織を抑える統一された治安組織がない現状で、宣言が効果を持つか疑問視されている。

ガザ地区では16日も各地で銃声が響いた。ガザ市内の議長官邸に迫撃砲が撃ち込まれ、ハマス側が支配する内務省にも銃撃が加えられた。また、ファタハがハマスの武装組織戦闘員5人を連行していた車をハマスが襲撃し、ハマスの5人を含む7人が死亡した。

一方、ハマスが同日、ガザ地区に近いイスラエル領内のスデロットにロケット弾数発を撃ち込んだことから、イスラエル軍はガザ南部ラファハを空爆、ハマスの4人が死亡した。ハマスのロケット弾の1発は、イスラエルのペレツ国防相の自宅の隣の民家に着弾したが、けが人はなかった。90



●イスラエル軍、ガザ空爆を継続 ハマス、ファタハまた停戦

【カイロ=村上大介】ロイター通信によると、パレスチナのイスラム原理主義組織ハマスは19日、パレスチナ自治区ガザ地区北部で、イスラエル軍をロケット弾で攻撃、1発が軍用ブルドーザーに命中し、イスラエル兵1人が軽傷を負った。同軍は、ハマスによるイスラエル領へのロケット弾攻撃を阻止するため、ガザ地区に空爆を加えており、19日もパレスチナ人2人が死亡し、5人が負傷した。

同通信によると、イスラエル軍が16日にハマス軍事部門の標的に対する空爆を開始してから、パレスチナ側の死者は少なくとも17人にのぼる。同軍はガザ北部の自治区側にも戦車などを投入している。一方、内部抗争を続けるアッバス自治政府議長率いるファタハとハニヤ首相が属するハマスは19日、エジプトの仲介で新たな停戦に合意。停戦は同日午後3時(日本時間同9時)に発効し、双方の武装組織メンバーは街頭からの撤退を開始したもようだ。

だが、停戦発効直前に、ガザ地区の情報担当責任者を務めるアッバス議長補佐官の車列が何者かの銃撃を受けた。ファタハとハマスは13日以降、ほぼ毎日のように停戦に合意したが、双方の政治指導部が武装部門を制御できない状況が続いてきた。ファタハとハマスの抗争が再燃した過去1週間で、パレスチナ人約50人が死亡。

ハマスは15日からイスラエル領に約100発のロケット弾を発射し、イスラエル軍の攻撃を誘った。同軍がハマスへの空爆を開始したことで、内部抗争は下火となっているが、情勢は依然、流動的だ。イスラエルのペレツ国防相は19日、ガザ地区への本格的地上侵攻の可能性を否定しながらも、ハマスを標的とした攻撃を続けると言明した。91



●イスラエル軍 対ハマス軍事作戦強化へ

【カイロ=村上大介】イスラエルの安全保障閣議は20日、パレスチナ自治区ガザ地区からイスラエル領にロケット弾を撃ち込んでいるイスラム原理主義組織ハマスなどの武装組織を標的とした軍事作戦を強化することを決めた。現時点では、ガザ地区への地上侵攻を意味するものではないと受け止められている。

これに先立ち、イスラエル軍は同日未明、ガザ地区で、ハマスの戦闘員が乗っていた車にミサイルを撃ち込み、パレスチナ人3人が死亡。さらに、ハマスがロケット弾を製造していたとする鋳物工場2カ所にもミサイルを撃ち込んだ。ガザ地区でのハマスの標的に対するイスラエル軍の攻撃は、これで5日目。一方、アッバス自治政府議長が率いるファタハとハマスの内部抗争をめぐり19日に成立した停戦合意は20日現在、順守されている。 92



●イスラエル ハマス議長宅を攻撃 家族や隣人ら8人が死亡

【カイロ=村上大介】イスラエル軍は20日夜(日本時間21日未明)、パレスチナ自治区ガザ地区でイスラム原理主義組織ハマスに所属するパレスチナ評議会(議会)議員の自宅に、攻撃ヘリからミサイルを撃ち込んだ。攻撃で、議員の家族ら8人が死亡、十数人が負傷した。軍は21日未明にも石材加工所など2カ所を空爆し、パレスチナ人1人が死亡した。

ミサイルを撃ち込まれたのは、ハマス政治部門のハリール・ハイヤ議員のガザ市内の自宅。ハマス側は死亡した8人のうち武装要員は2人だけで、6人は家族や隣人だったとしている。ロイター通信によると、イスラエル軍は、イスラエル領へのロケット弾発射に関与した武装勢力を標的にしたとしているが、武装要員2人はハイヤ議員の自宅の警備要員だった可能性もある。

イスラエルのオルメルト政権は20日、安全保障閣議で、ガザ地区からロケット弾を発射しているハマスとイスラム聖戦に対するイスラエル軍の軍事作戦強化を許可することを決定。その数時間後の最初の攻撃がハマス政治部門に属するパレスチナ評議会議員の自宅を標的とし、家族らが犠牲となったことで、ハマス側はイスラエルに「地震のような反撃を加える」と激しく反発。イスラエル領内での自爆テロなどの報復が懸念される事態となった。

AP通信によると、イスラエル軍がガザ地区でハマスに対する空爆を開始した16日以降、これまでにパレスチナ人36人が死亡した。イスラエルによると、ハマスはこれまでに100発以上のロケット弾をイスラエル領に撃ち込んだが、イスラエル側に死者は出ていない。93



●イスラエルパレスチナ閣僚ら33人拘束

【カイロ=村上大介】イスラエル軍は24日、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ナブルスなどで、シャーイル自治政府教育相らイスラム原理主義組織ハマス政治部門の幹部ら33人の身柄を拘束した。33人には、パレスチナ評議会(議会)の議員3人やナブルス、カルキリヤ市長など市町村長少なくとも7人も含まれている。イスラエル軍は、自治区ガザからイスラエル領にロケット弾発射を続けるハマス武装部門に対する空爆を続けており、ペレツ国防相は軍放送に「(教育相らの拘束は)テロ組織の武装部門に攻撃をやめさせるためのメッセージだ」と述べた。94



●ハマス拠点空爆5人死亡

【カイロ=村上大介】イスラエル軍は26日、イスラム原理主義組織ハマスを狙い、パレスチナ自治区ガザ地区数カ所を空爆、病院関係者によると、ハマス活動家ら5人が死亡した。ハマスに所属するハニヤ首相のガザ市内の自宅近くにも着弾し、警備要員の詰め所が破壊された。首相は「イスラエルの攻撃はその狙いを達成できず、深刻な結果をもたらす」と警告する声明を出した。一方、イスラエル軍は同日早朝、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ジェニン近郊を急襲、ハマス所属のカブハ自治政府無任所相を自宅から連行した。同軍は24日にもシャーイル教育相やナブルス市長らハマス政治部門の有力者ら33人を拘束している。95



●パレスチナ、分裂の可能性 ハマス、ガザ全域をほぼ制圧

 【カイロ=村上大介】パレスチナ自治区ガザ地区制圧に向けて戦闘を続けるイスラム原理主義組織ハマスは14日、ガザ市内に残るファタハ最大の治安警察本部を制圧した。ファタハ部隊は同市内の自治政府議長府で抵抗を続けているが、ハマスによるガザ全域の掌握は最終局面を迎えた。ファタハを率いるアッバス自治政府議長は同日中にも、ヨルダン川西岸の自治区ラマラで、ハマスが主導する挙国一致内閣の罷免と非常事態宣言を布告する見通しで、自治区は、ガザのハマス政府と西岸のファタハ政府に分裂する可能性が強まってきた。

ハマスは14日までに、ガザ北部と南部のファタハ系治安施設を制圧。ガザ市内に残るファタハ治安部隊中枢への攻撃を強め、同日昼までに最大規模の治安警察本部を陥落させた。ファタハ側は、議長警護にあたる精鋭部隊フォース17などが議長府で抵抗を続けているが、ハマス報道官は「(2005年夏のイスラエル撤退に次ぐ)ガザの第2の解放」などとして“勝利宣言”。ハマス武装組織からは「ガザでのイスラム統治の始まり」との声も上がった。

一方、アッバス議長は同日、西岸ラマラで、パレスチナ解放機構(PLO)の意思決定機関である執行委員会を開催し、対応策を検討した。その結果、同委員会は(1)3月に樹立されたハマスとファタハの挙国一致内閣の罷免(2)ガザと西岸での非常事態宣言布告(3)国際的保護の要請(4)早期総選挙の実施-を議長に勧告した。議長は14日中にもこれらの措置を発表する見込みだ。

しかし、アッバス議長が挙国一致内閣を解任しても、ガザ地区が事実上、ハマスの手に落ちた現実を覆すことはできず、ハマスがガザを拠点に「正当な自治政府内閣」の存続を主張するのは確実。自治政府は、西岸ラマラを拠点とするファタハ政府とガザ地区のハマス政府に分断されることになる。

ファタハは今後、西岸を死守する必要があり、14日、西岸のハマス活動家数十人を拘束した。「ハマスが西岸に『戦争』を拡大させないための予防的措置だ」としている。14日の戦闘の死者は少なくとも20人にのぼるとみられ、9日の戦闘再燃後の死者は100人に近づいている。96



●<イスラエル>パレスチナ武装勢力との戦闘で兵士1人死亡

【エルサレム支局】パレスチナ自治区ガザ地区中部のブレイジ難民キャンプで12日、イスラエル軍とパレスチナ武装勢力の間で戦闘が発生。兵士1人が死亡、2人が負傷した。イスラエル軍はイスラム原理主義組織ハマスがガザ地区を実効支配して以降、地区内にたびたび侵攻して「テロ行為を防ぐ」(同軍報道官)ための作戦を展開しているが、兵士が死亡したのは初めて。イスラエル軍は先週もこの付近に侵攻し、ハマスのメンバー9人を含むパレスチナ人11人を殺害している。97



○アメリカの動向

●米・EU・露・国連、武闘路線放棄を促す

【ワシントン=坂元隆】イスラム原理主義組織ハマスが圧勝したパレスチナ評議会選の結果を受け、中東和平案「ロードマップ(行程表)」を推進する米国、欧州連合(EU)、ロシア、国連の4者は声明を出し、選挙は「自由で公正だった」と評価した。しかし、「武装闘争と民主主義国家建設の間には根本的な矛盾」があると指摘し、名指しを避けながらも、ハマスが対イスラエル武装闘争路線を放棄し、イスラエルの生存権を認めるよう促した。98



●ファタハ内閣組閣急ぐ 米、経済支援再開へ

【カイロ=村上大介】米国のウォレス・エルサレム総領事は16日、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ラマラで、アッバス自治政府議長と会談し、自治政府非常事態内閣が発足し次第、米国が凍結していた対パレスチナ経済支援を再開すると伝えた。自治政府高官がロイター通信に明らかにした。

アッバス議長が非常事態内閣首相に指名したファイヤド財務相は組閣作業を急ぎ、17日までに内閣を発足させる。議長側近によると、内閣は独立系メンバー10~12人で構成される実務内閣となる見通しだという。西岸各地では、イスラム原理主義組織ハマスがガザ地区を武力制圧したことに反発するファタハ武装組織が、ハマス系の事務所や施設を襲撃する騒ぎが続いている。ラマラでは16日、パレスチナ評議会(議会)に武装グループが乱入、「ハマスは出て行け」と叫び、屋上にファタハの旗を掲げた。

北部ナブルスでも、ハマス系の学校や福祉事務所、テレビ局など10カ所以上が襲撃を受けた。一方、カイロで開催されたアラブ連盟緊急外相会議は16日未明、「ガザ地区で行われた犯罪行為」を非難するとともに、同地区を「以前の状況に回復」するよう求める共同声明を発表した。ハマスによる武力制圧を間接的に批判したが、ガザのハマスと西岸のファタハに分裂した自治政府に対する明確な対応は打ち出せなかった。99



●米国、対パレスチナ直接支援再開を発表

【ワシントン 18日 ロイター】米国は18日、パレスチナ自治政府への支援凍結を解除した。直接支援再開には、穏健派のアッバス議長を後押しするとともに、イスラム原理主義組織ハマスを孤立させる狙いもあるとみられている。アッバス議長は18日、ブッシュ大統領と電話会談し、イスラエルとの真剣な和平交渉を再開する時が来たと述べた。ブッシュ大統領は議長への支持を約束した。

この数時間後にライス国務長官が「パレスチナ自治政府への完全支援と正常な政府間連絡の再開」と発表した。ライス長官は記者会見で、米国はパレスチナ支援のため4000万ドルを拠出すると述べた。ハマスがガザを制圧した後に発足した非常事態内閣に対しては、イスラエルも支持を表明している。100



●パレスチナ和平会議を今秋開催=自治政府に230億円援助-米

【ワシントン16日時事】ブッシュ米大統領は16日、中東のパレスチナ和平に関する声明を発表し、パレスチナとイスラエル、周辺アラブ諸国などによる和平会議を今秋開催すると表明した。議長はライス国務長官が務める。さらに、アッバス議長が率いる自治政府に対し、1億9000万ドル(約230億円)の援助を実施する方針も明らかにした。101



●米国務・国防長官 中東訪問

【カイロ=村上大介】米国のライス国務長官とゲーツ国防長官は31日、中東歴訪を開始、エジプト・シナイ半島のシャルムエルシェイクで、エジプト、ヨルダンとサウジアラビアなど湾岸協力会議(GCC)の親米アラブ8カ国外相や、ムバラク・エジプト大統領と会談した。

両長官そろっての異例の中東訪問は、穏健アラブ各国への大規模軍事援助を絡め、核開発疑惑を抱えるイラン封じ込めやイラク情勢安定化への協力を取り付けるのが狙い。ライス長官はイスラエルパレスチナも訪れ、穏健派のアッバス議長率いる“ヨルダン川西岸の自治政府”と、イスラエルとの和平交渉再開についても協議する。102



●<ライス国務長官>アッバス議長らと会談 パレスチナ・ラマラ

 ライス米国務長官は2日、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ラマラでアッバス自治政府議長らと会談し、米国が自治政府の治安部隊の強化・再編資金として総額8000万ドルを支援する包括協定に署名した。アッバス議長は国境画定やパレスチナ難民の帰還権問題など、最終地位交渉を進める必要性を強調した。103



○イギリスの動向

●中東和平問題、解決に向け好機到来=ブレア特使

【ラマラ 24日 ロイター】中東和平を仲介する米欧、国連など4者の特使となったブレア中東特使(前英首相)は24日、初の中東訪問でパレスチナとイスラエルの指導者と会談し、「チャンスのときがきた」と述べながらも、和平までのプロセスには時間がかかるだろうと指摘した。特使は、2日間にわたりエルサレム、ヨルダン川西岸などを訪問。訪問後初の公式コメントで、今回の訪問の主な目的は「耳を傾け、学び、思索すること」と説明した。

特使は9月、より長期間の中東訪問を予定している。特使は、パレスチナ自治政府のファイヤド首相と会談した後、「現時点では、可能性を感じさせるものがあると思う。これは、チャンスのときだと思う」と語った。これより先に行ったペレス・イスラエル大統領との会談後に特使は、こうした可能性を「何かの形に」変換していくには、「時間をかけた」努力と思索が必要だと述べていた。このほか特使は、アッバス・パレスチナ自治政府議長とも会談した。104



●パレスチナ和平 実権なき?ブレア特使 19日4者外相級協議

【カイロ=村上大介】パレスチナ自治政府がヨルダン川西岸とガザ地区に分裂した事態を受け、パレスチナ和平をめぐる米国、欧州連合(EU)、ロシア、国連の4者の外相級協議が19日、ポルトガルの首都リスボンで開かれる。注目されるのは、4者の和平特使に就任したブレア前英首相が今後どのような仲介に取り組むかだが、米国は和平交渉再開などの「政治的分野」は自らが取り仕切るとしており、ブレア特使の権限は大幅に限定され、十分な仲介ができるのか早くも疑問視されている。

ブレア氏は6月末、英首相を退いた直後、4者の和平特使就任を受諾。19日の4者外相級協議は、パレスチナのイスラム原理主義勢力ハマスによるガザ制圧後初めてで、ブレア特使の本格デビューとなる。協議では、ハマスと対立するアッバス自治政府議長率いるファタハが影響力を残すヨルダン川西岸の“ファタハ内閣”への支援策などを検討する。しかし、ブレア特使の権限は依然固まっておらず、「中東和平特使」という呼称の印象とは異なり、限定されたものになるとみられている。

米政府は「パレスチナの最終地位交渉などイスラエルとパレスチナの間の協議に関しては、これまで通りライス国務長官が当たる」(米国務省報道官)などと繰り返し強調。ブレア特使に与えられる任務は、ヨルダン川西岸で非常事態内閣を樹立したアッバス議長らへの国際的な経済支援の取り付けや、大幅に機能がまひしている自治政府の「再建」の2点となるもようだ。「自治政府再建」は和平交渉再開にとって必要な段階ではあるが、例えば、自治政府の治安機関を再建する過程では、西岸地区に駐留するイスラエル軍の展開範囲やユダヤ人入植地の拡大問題など「和平プロセス」と表裏一体をなす課題が浮上するのは必至だ。

ブレア氏自身も与えられる権限の少なさに不満を抱き始めているようで、欧州外交筋がロイター通信に語ったところでは、「ブレア氏は技術的な役割だけでなく、政治的な役割を果たすことを望んでおり、各国に働きかけている」と指摘。ファタハ幹部も、ブレア氏の権限を拡大するよう各国に要請していることを明らかにしている。当初、16日にも開かれるとされていた4者外相級協議が19日となったのは、こうした議論が影響している可能性もある。ブレア特使については、アッバス議長やイスラエル側、エジプトなど穏健アラブ諸国の政府は歓迎の姿勢を示した。しかし、メディアの論調は穏健諸国も含め、ブレア氏がイラク戦争開戦でブッシュ政権の後押しをしたことを挙げ、冷たい視線が圧倒的だ。

一方、ブレア特使が支援策を検討することになるアッバス議長は13日、西岸地区を統治する非常事態内閣の期限切れに伴い、ファイヤード首相を再任し、14日に新内閣を発足させた。新内閣は5週間以内に正式政権を発足するための“暫定内閣”と位置づけられているが、ハマスが過半数を占める評議会(議会)で“ファタハ政権”が承認される可能性はない。「可能な限り合法的な道筋を追求しようとしている」(ファタハ幹部)というアッバス議長にとっても綱渡り。現地入りするブレア特使はさっそく、難しい状況に直面することになる。105



●ピンク・フロイド元ボーカル、中東の「壁」撤廃訴え

【エルサレム=三井美奈】1970年代にアルバム「ザ・ウォール(壁)」を大ヒットさせた英ロックバンド「ピンク・フロイド」の元ボーカル、ロジャー・ウォーターズさん(61)が22日、イスラエル中部でコンサートを開き、同国が建設を進めるパレスチナ側との「分離壁」撤廃を訴えた。

ウォーターズさんは、アラブ系住民とユダヤ系住民がともに生活するネベシャロム近郊の屋外会場で、集まった約5万人の観客に向かって、「君たちが壁を壊し、隣人と平和を実現してほしい」と主張し、往年の名曲を披露した。ウォーターズさんは1990年にも「ザ・ウォール」にちなみ、「ベルリンの壁」跡地で壁崩壊を記念するコンサートを開き、約20万人を動員している。106



○EUの動向

●EUが非難声明、ホロコースト発言のイラン大統領に

【ブリュッセル=飯塚恵子】欧州連合(EU)外相理事会は15日の夕食会で、イランのアフマディネジャド大統領が、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人虐殺)の事実を「神話」だとし、「イスラエルは米国に移転すべきだ」などと繰り返していることについて、「無条件に非難する」との緊急声明を発表することで合意した。107



●EUがパレスチナ財政支援、ハマスの実権掌握後初

【ブリュッセル=林路郎】欧州連合(EU)の執行機関、欧州委員会は27日、総額1億2000万ユーロ(約168億円)に上る対パレスチナ支援を決定した。フェレロワルトナー欧州委員(対外関係担当)が同日、記者団に明らかにした。イスラム原理主義組織ハマスが実権を握ったパレスチナに対する巨額の支援表明は初めて。

イスラエルが2月19日に代替徴収していた毎月約5000万ドル(約58億円)の関税引き渡し停止を決めた後、パレスチナ自治政府の財政状況は急速に悪化している。EUは財政破たんの回避を優先する立場を打ち出した形だ。EUは、アラブ諸国にも対パレスチナ支援を呼びかける見通しだ。108



●パレスチナ住民に直接支援物資、EU・国連など合意

【ブリュッセル=林路郎】中東和平を仲介する欧州連合(EU)、米国、ロシア、国連の4者は17日、イスラム原理主義組織ハマス主導のパレスチナ自治政府を通さず、パレスチナ住民に直接、支援金や生活物資を供与するための暫定的なメカニズムについて合意した。

EUが16日の首脳会議で合意した援助計画に米国が同意したもの。EUは早ければ7月初旬にも住民援助を開始する。

4者は、この合意に関する声明を発表し、医療、燃料、電力供給などの分野で直接支援を行う方針を表明した。困窮の度合いが深刻な住民に対しては、一定の生活資金を給付する。EU報道官によると、EUの支援金額は約1億2600万ユーロ(約183億円)前後となる見込み。声明は、ハマスに資金が流れ込んでいないかなどを検証するため、3か月後にメカニズムの妥当性について再検討するとしている。

EUは当初、医療や教育、清掃などに携わる職員への給与支払いを提案したが、米国が「ハマスを間接的に利する」として反対した。だが、パレスチナの経済状態が極度に悪化していることもあり、一定の生活資金を困窮者に給付する中間案に双方が歩み寄った。109



●EU、レバノンに15億円の緊急人道支援へ

【ブリュッセル=林路郎】欧州連合(EU)は22日、レバノンからの大量の避難民の中継地点となっているキプロスに、医療支援などにあたる専門家チームを緊急に派遣することを決めた。EUはまた、イスラエル軍とイスラム原理主義組織ヒズボラの戦闘による被害が拡大しているレバノンに対し、1000万ユーロ(約14億7000万円)の緊急人道援助を実施することを決め、近く供与する。

ルイ・ミシェル欧州委員(人道援助担当)は「約50万人が国内避難民となり、レバノンは深刻な人道の危機に直面した」と言明。状況によって援助を追加拠出する用意があることを明らかにしている。110



○日本の動向

●日本の対パレスチナ支援

日本は1993年度以降、レバノンなどへのパレスチナ難民支援も含めてパレスチナに対し計8億4408万ドルを拠出。国連開発計画(UNDP)や国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)などの国際機関を経由した支援が7割を占める。外務省によると、国際社会全体のパレスチナ支援のうち日本は10.1%を拠出、欧州連合(EU)23.5%、米国22.9%に次いで第3位となっている。111



●小泉首相、中東との4者協議提唱…イスラエル首相賛成

【エルサレム=田中隆之】小泉首相は12日昼(日本時間12日夕)、エルサレムのイスラエル首相府でオルメルト首相と会談し、イスラエルとパレスチナの共存共栄に向けた信頼醸成の一環として、イスラエルとパレスチナ、隣国のヨルダン、日本の4者による協議の設置を提案した。オルメルト首相は賛成した。

4者協議は閣僚か局長級を想定している。日本の政府開発援助(ODA)を利用し、パレスチナ自治区のヨルダン川西岸とイスラエル、ヨルダンにまたがる「ヨルダン渓谷」に農業・工業団地などを建設する事業など、中長期的な課題を話し合う。小泉首相は「ヨルダン渓谷を『平和と繁栄の回廊』とすることを話し合いたい」と述べた。首相は13日のパレスチナ自治政府のアッバス議長、14日のヨルダンのアブドラ国王との会談でも4者会合への理解を求める。オルメルト首相は「4者による経済協力は日本らしい支援だ」と評価した。

また、小泉首相は、自国兵拉致を受けたイスラエル軍の軍事行動について「イスラエル国民に我慢の限界があることは分かるが、憎しみの連鎖は双方の利益にならない。最大限の自制を求める」と語った。北朝鮮のミサイル発射や核問題に関して、オルメルト首相は「非民主主義国家を隣国に持つ危険性を私もよく分かる」と指摘した。小泉首相は国連安全保障理事会での対北朝鮮制裁決議案の早期採決の重要性を強調した。また、小泉首相はオルメルト首相の来日を招請した。112



●パレスチナ支援「4者協議」、麻生外相を議長に初会合

日本とイスラエル、パレスチナ、ヨルダンによる「4者協議」の初会合が14日、都内のホテルで開かれた。日本の政府開発援助(ODA)を活用し、イスラエルとヨルダンにまたがるヨルダン渓谷の開発を進めることによるパレスチナ支援を目的としている。政府は同渓谷の開発を「平和と繁栄の回廊」構想と名付け、中東外交の柱の一つと位置づけている。

4者協議は、昨年7月に小泉首相(当時)が中東歴訪した際、関係国などに提案し、大筋で了承されたものだ。初会合は、麻生外相が議長を務め、イスラエルのペレス副首相、パレスチナ解放機構(PLO)のエレカト交渉局長、ヨルダンのカスラウィ国王特別顧問が出席した。4者協議では、ヨルダン渓谷一帯に、農業・工業団地や配送センターなどを建設し、域内の農産物をヨルダンを通して湾岸諸国に出荷することなどが検討されている。

協議に先立ち、ペレス氏らは安倍首相と首相官邸で会談した。首相は「中東和平は地域の平和と安定にとって不可欠だ。『平和と繁栄の回廊』構想は共存共栄の実現に向けた一助として重視している」と述べた。ペレス氏らは「構想は重要な企画だ。4者で協力していきたい」と語った。また、政府主催の「第3回イスラエル・パレスチナ和平信頼醸成会議」も同日、都内で開かれ、ペレス、エレカト両氏が出席した。15日に閉幕する。113



なぜ、争いは終わらないのだろうか・・・

イスラエルパレスチナ問題は、領土、歴史、宗教、民族、差別などあらゆる問題が複雑に絡み合った問題であり、それ故にいまだ解決の兆しが見えず、混迷化している。

ユダヤ人は、遠い過去に故郷(パレスチナ)を追われ世界に離散し、差別を受けてきた。さらには第二次大戦中にナチスによるホロコーストにまであった。そんな目にあった人々が、自分達の安息の地を求めるのは当然のことである。そしてパレスチナという自分達が故郷と信じる土地に戻ろうと考えるのもまた然りである。

しかし、そこにはパレスチナ人が住んでいた。パレスチナ人にしてみれば自分達が昔から住んでいた土地にいきなりユダヤ人がやって来て、国を創ろうとする行為、またそれによって自分達が立ち退かなければならないのは、理不尽なことであり納得いくものではない。このようにユダヤ人もパレスチナ人もお互いに自分達の領土を主張して引けない状態にあるのである。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地と呼ばれるエルサレムを有するパレスチナ地方をヨルダンやレバノンなど近隣諸国も巻き込んで奪い合ってきた。そして占領、抵抗、弾圧、テロ、と争いは激化し、数え切れないほどの死者、負傷者などを出し、お互いの憎悪を深め合う結果となってしまった。このような状態になるのを促したのは、イギリスやアメリカなどの経済大国である。これらの国々は利益追求のためにパレスチナを利用し、争いの火種を作り拡大させてしまった。

そもそもこの問題の始まりは、昔からあるユダヤ人に対する差別行為にあるのではないか、人間の本質的にある差別意識がユダヤ人を追いやってしまったと言える。この問題の責任はユダヤ人、パレスチナ人などだけにあるのではなく、それを取り巻く国際社会にあるのではないか。

今までの戦争や虐殺、テロなどの歴史を経て、近年になって和平の兆しが出てきた。武力などを使った強制的な形ではイスラエル国家を維持することは難しいということを認識し、妥協案を用いて、平和的な問題の解決を図る傾向が出てきていた。このような状況が続いていれば、今の時代には幾分かこの問題は緩和されていたかもしれない。

しかし、物事には常に相反する存在がある。和平に対する反対勢力が存在したのである。この反対勢力の中には、自分達の宗教に対して過剰な信仰心を抱いている人々がいる。自分達の神を崇拝するがゆえに、パレスチナという地は全て神によって自分達に与えられたものであって、誰にも譲ることは出来ない、そのためにはテロも辞さないといった偏った考え方をしてしまっている。

そのため、和平によって、自分達が占領した所から撤退するということができず、そのような風潮に対して抵抗し、テロや暴動を起こしてしまう。また虐殺や戦争の被害者である。被害者達は加害者から精神的、肉体的に耐えがたい苦痛を受けた。そのような人たちがそう簡単に相手を許せるわけがない。そしてこのような人たちはテロなどによって復讐をするのである。

このような人々の存在が和平を滞らせてしまっているのではないか。ここで注意しておかなければならないのは、民衆の多くは和平を望み、争いは望んでいないのである。ほんの少数の過激派の人々の行動が波紋となり和平に大きく影響を与えているのである。

もし、自分達が良識を持ちしっかりとした自己を持ち物事を判断するのであれば、このような虐殺やテロなどを起こすことは、単に憎悪を増大させるだけであり、更なる虐殺やテロなどの破壊的なことを相乗効果的に生み出す結果にしかならないことは明白であると分かるはずである。それにもかかわらず、このような行動を人々が取ってしまう背景には、憎悪、絶望といった感情や過剰な信仰心があり、これらが人々を盲目にしてしまうのではないか。



争いを終わらせるために、どうして行くべきか・・・

イスラエルパレスチナ問題のような紛争問題を解決する上での要点となるのは、国際社会の協力である。国際社会の協力により、紛争地域での争いなどによって引き起こされる憎悪や過剰な信仰心から来る暴動やテロを抑制し、当事者間の妥協案を模索し、和平を進展させられるはずである。

イスラエルパレスチナ問題は、第2節で述べたように領土、宗教、民族などあらゆる問題が複雑に絡み合ったものである。それ故、この問題の当事者である中東地域の国々だけでは、問題解決の糸口を見つけられなくなっている。さらには、あまりに根が深く複雑な問題であるために、イスラエルやパレスチナそれぞれにとって理想的な国家を創るというような、根本的な解決は不可能である。

そしてイスラエルという国を無くし、離散した全てのパレスチナ難民を帰還させ、ユダヤ人を追い出して再び世界中に離散させることも不可能である。お互いに妥協しあうしか方法が無いと考えられる。中東の国々がイスラエルという国の存在を認め、またイスラエルはパレスチナの占領政策を止めて、お互いにうまく共存するしかないのではないか。

これでは、もともと住んでいた土地を追われたパレスチナ人の難民問題やシオニストによる占領政策を肯定してしまっているという面で解決にはならないが、これ以上、紛争、虐殺、テロなどによって更なる憎悪を深め、さらなる悲惨な状況を招かないためにも、お互いに妥協し合わなければならないのではないか。

そのために国際社会の協力というものが重要となってくる。紛争の当事者はどうしても自分達の立場、主観に立って物事を捉えてしまう。そのためお互いの意見を主張して、妥協をすることが難しくなる。そこで客観的に紛争問題を捉えることが出来る、第三者の国々の働きかけが重要なのである。

国際社会が協力して、紛争を引き起こす国や組織に対しての経済支援を打ち切り、国際法に準じて罰することなど、紛争を抑制させ、和平を推進していく動きが波及していけば、紛争当事者もいがみ合いを止めざるを得なくなるのではないか。そこで初めて、冷静な話し合いが出来るはずである。

また当事者の中にも平和を望み、争いを止めようと考え活動している市民団体や政治家なども存在している。それらの人々と国際社会が共同することによって、内外から効果的な和平の推進が図れるはずである。

そして、少しずつではあるが和平の風潮がパレスチナにおいて高まりつつある。しかし、未だにその動き反した勢力による、テロや報復などの動きも後を絶たない。再び和平の動きが台無しにならないためにも、これからの国際社会の働きが重要である。

近年、アメリカ主導の中東和平行程表「ロードマップ」やEUのスラエルパレスチナ問題に対する巨額の経済支援など、和平の動きが国際的に進展しつつある。そして日本もパレスチナ支援を目的とし、日本のODAを活用した4者協議(日本、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン)を開催したり、パレスチナ難民支援のために巨額の資金を拠出したりと、独自にイスラエルパレスチナ問題に関わっている。

しかしながら、中東和平行程表「ロードマップ」は内容がイスラエル寄りであり、最重要課題である難民の帰還権問題やエルサレム帰属問題は先延ばしにされているなど、難点が多い。アメリカのネオコン114の存在が和平行程に歪みを生じさせてしまっているのではないか。国際社会に対して影響力の大きいアメリカの和平に対する振る舞いを矯正することは、真に和平を推進する上で重要である。

そしてアメリカを正すために、日本は大きな役割を担ってくる。日本とアメリカは他のどの国よりも友好関係が強い。そのため、お互いに与える影響は強い。しかし、日本はこれまでアメリカに対して友好関係の保持を重視するがゆえに、共同歩調をとってきた。結局のところアメリカの方針に追随してきたのである。

イスラエルパレスチナ問題に対する日本政府の基本的立場は、「安保理決議242及び338の早急な実施、パレスチナ人の民族自決の承認、イスラエルによる東エルサレムを含む前線領地からの撤退、パレスチナ独立国家の樹立」であり、このため「わが国は、PLOをパレスチナの代表と認め、PLOが和平過程への参加することが必要」115としている。日本は、アメリカに共同歩調をとることなく、アメリカの中東和平の動きに介入していく必要がある。



おわりに

私たちはイスラエルパレスチナ問題を日本からは遠く離れた場所で起きているため、自分達には関係のない他人事のように感じてしまいがちである。確かにそのように感じてしまうのも仕方がない部分もある。自分自身もピースボートに乗る前は、テレビや新聞でこの問題について報道があっても、ちょっとした興味があっただけで、それ以上の関心を抱くことはなかった。

しかし実際に、この問題について学び、深く知り、難民キャンプを訪れ、酷い過去や現状を知り、パレスチナの現実を痛感した。そして今まで以上に関心を持つようになった。日本に帰ってからも以前と違い、テレビや新聞でこの問題を取り上げていると関心を持って見るようになった。知るということが関心を持つきっかけとなったのである。

一人一人がこの問題を知り、関心を持ち、学び、伝える、という過程を経て、国民つまり国全体の意識が変わり、やがて世界全体の意識が変わっていくのではないだろうか。そして世界中がパレスチナの紛争を止めようとする風潮になっていくのではないだろうか。そしてその流れがイスラエルパレスチナ問題を解決に向かわせるのではないだろうか。

そうは言ったものの、あまりに漠然として実感のわかないことではある。しかし、ピースボートに乗ってあらゆることを学び経験したことによって、一人一人の意識が世界中に波及していくことの可能性を感じた。"Think globally. Act locally." という言葉の意味を実感したのである。

つまり私たちにできることは、「知る」ということである。「知る」ということは、「意識」を変え「行動」を起こすきっかけになるのである。



参考文献

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5 ユダヤ人問題について
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6 自らの民族政治経済文化の主体と考え、至上の価値観を置く思想運動

7 一つの国家が、自国の民族主義文化宗教経済体系などを拡大するため、また新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略すること、またそれを押し進めようとする思想や政策

8 西欧に経済的・政治的影響力をもつユダヤ系大資本家。

9 奈良本英佑『パレスチナの歴史』明石書店(2005)p.80

10 1984年にフランスで起きた、参謀本部に勤めるユダヤ人大尉・アルフレッド・ドレフュスに対する冤罪事件である。

11 エルサレムのシオンの土地、神がユダヤ人に約束したエレツ・イスラエル(イスラエルの地)、すなわちパレスチナをユダヤ人の土地とし、ユダヤ人国家をつくろうとする運動。

12 野口宏『これならわかるパレスチナとイスラエルの歴史Q&A』大月書店(2005)p.63

13 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.28

14 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.30

15 カイロ駐在の英国高等弁務官サー・ヘンリー・マクマホンが、英国の命を受けて、メッカの太守フセイン・イブン・アリーに送った書簡である。中でも1915年に発出されたマクマホン書簡は、パレスチナを含んだ広い範囲の東アラブ地域において、アラブ独立国家を建設することを、「イギリスとして承認し、支持する用意がある」とはっきり約束している。

16 鏡武『中東紛争その百年の相克』有斐閣(2001)p.26

17 英国の当時の外相、アーサー・ジェームズ・バルフォアが、英国におけるシオニスト運動の指導者たるウォルター・ロスチャイルドに対して書簡を送り、その中で、「英国政府は、パレスチナの地で、ユダヤ人が民族郷土(ナショナル・ホーム)を樹立することを好意的に受け止め、そのような目的の達成が容易になるように最善の努力をする」と明言してしまったもの。

18 鏡武『中東紛争その百年の相克』有斐閣(2001)p.28

19 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.33

20 パレスチナ全土の20%をユダヤ人の植民地として分与する案。

21 パレスチナ全域にアラブ独立国家をつくる案。

22 野口宏『これならわかるパレスチナとイスラエルの歴史Q&A』大月書店(2005)p.74-76

23 民族社会主義あるいはヒトラー主義は、1933から1945までドイツ第三帝国の政権に就いた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の世界観。

24 狭義にはヒトラー政権下のドイツおよび、その占領地域においてユダヤ人などに対して組織的に行われたとされる絶滅計画を指す。広義には虐殺一般をホロコーストと称することもある(ただし本来ホロコーストという語自体に虐殺の意味はない)。

25 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.35

26 野口宏『これならわかるパレスチナとイスラエルの歴史Q&A』大月書店(2005)p.84

27 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.38,39

28 鏡武『中東紛争その百年の相克』有斐閣(2001)p.58-60

29 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.44,45

30 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.51,52

31 1956年にハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起をさす。 蜂起は直ちにソビエト軍により鎮圧されたが、その過程で数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡した。今日のハンガリーでは1956年革命("1956-os forradalom")と呼称されている。

32 鏡武『中東紛争その百年の相克』有斐閣(2001)p.67-74

33 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.54,55

34 鏡武『中東紛争その百年の相克』有斐閣(2001)p.78

35 PLO(パレスチナ解放機構)における最大党派。名称のファタハは、アラビア語の「パレスチナ民族解放運動」の頭文字を逆に綴ったものである。

36 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.58-60

37 ①イスラエル軍隊が今回の戦争で占領した領土から撤退すること。②あらゆる交戦状態を終結し、地域における全ての国の主権、領土保全及び政治的な独立、そして武力による威嚇又は武力の行使が行われない安全で承認された境界の中で、平和的に生存する権利を尊重すること。

38 鏡武『中東紛争その百年の相克』有斐閣(2001)p.82,83

39 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.57,58

40 もとは第二次大戦の前の1930年代にスンニー派によって唱えられたイスラム法を厳格に実践し、イスラム社会を正していこうとする「イスラム復興主義」が母体である。現在はスンニー派、シーア派の区別なく構成されているが、もとは必ずしも過激テロ集団ではなかった。しかし1980年代の中東情勢の混迷などで次第に変質し復興主義が「原理主義」「過激主義」的集団となっていった。

41 イスラエルの初代大統領ベングオリンに代表される。これはユダヤ人国家建設のためには、分割の仕方がないとして1947年の国連分割決議を認めた。

42 これはジャボティンスキー率いられており、神の契約の地全土にユダヤ国家を樹立することを目的とする。そのためにはテロも辞さないという構え。契約の地とはヨルダン川両岸、つまり現在のイスラエルと現在のヨルダンに及ぶ地域であった。しかもこれは、イギリス統治下のパレスチナに地下軍事組織をその実行部隊として設立しており、その指揮官が1977年に首相となるベギンであった。

43 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.62

44 ①この決議の採択後12時間以内に、投資者が現在の位置で全ての戦闘を停止し、軍事行動を終結するように要請する。②当事者は、停戦の後、安保理決議242号の全てを履行するように要請する。③停戦と同時に、中東における構成かつ永続的な平和の樹立を目的とする交渉が、適当機関の下に、当事者によって開始されることを決定する。

45 鏡武『中東紛争その百年の相克』有斐閣(2001)p.101-112

46 野口宏『これならわかるパレスチナとイスラエルの歴史Q&A』大月書店(2005)p.103

47 レバノン政党・民兵組織の一つ。1975年にシリアの支援によって結成された。イスラム教シーア派(十二イマーム派)が支持母体である。結成当初はイスラム教原理主義者が多く存在していたが、弁護士でアメリカ市民権を持つ世俗路線派のナビ・ベリが代表就任後は世俗路線を明確にしていった。なお排除された原理主義派は、イスラミック・アマルと呼ばれる反主流を結成したが、80年代初頭にイランのバックアップの下、ヒズボラが結成されて発展的解消となった。内戦中はシリアの支援を下に強力な民兵組織を築いていた。親シリアの姿勢が明確であり、時としてはキャンプ戦争(シリアとPLOの軍事衝突の一つ)のようにシリアの傭兵として行動をとることもあった。世俗路線をとることから、原理主義を嫌悪するシーア派は住民に支持されているとされ、ヒズボラと勢力を二分する。内戦終結後は武装解除され、政党化されたが、現在も限定的に重火器を保有すると考えられている。代表のナビ・ベリはレバノンの国民議会(国会)の議長に就任した。

48 レバノン共和国におけるマロン派キリスト教徒系の政党・民兵組織。アラビア語でカターイブと呼称する。エジプト出身の歯科医であったピエール・ジュマイエルが1930年代に、ドイツのナチスをモデルに、レバノン独立を目指して結成したのが始まりとされる。政党として国会内では少数勢力であったが、むしろ土着のマロン派社会で強力な影響を持った。当初は反仏運動であったが、独立後は反シリア・反パレスチナ運動に変わっていった。

49 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.66,67

50 奈良本英佑『パレスチナの歴史』明石書店(2005)p.267,268

51 奈良本英佑『パレスチナの歴史』明石書店(2005)p.270-276

52 高温で燃えて、ウラニウムが粉塵となって飛び散り、空中に拡散していき、それが広範な汚染を引き起こし、多くの人たちを殺戮し環境汚染をしていく。

53 直径が約一二センチのボール状のものは、殺戮能力は低く触れると爆発し足を飛ばすなどする。恐怖心を起こすことを狙っている。幅200メートル、差し渡し650メートル、だいたい学校の校庭が三つぐらい入るエリアにいる人たちが全部殺される。

54 高熱を発して爆発し、その一部でも体に付着すると、ブスブスとからだを焼きながら体内深くに入り、水をかけると化学反応を起こして手がつけられなくなる。焼け跡には円錐状の穴があく。

55 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.74-95

56 野口宏『これならわかるパレスチナとイスラエルの歴史Q&A』大月書店(2005)p.111

57 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.100,101

58 パレスチナのイスラム主義団体で、パレスチナ解放運動の諸派のうち、いわゆるイスラム原理主義の代表的な組織である。1987年12月14日、ムスリム同胞団とイスラム・ジハードのパレスチナ支部に基づき、アハメド・ヤシンによって創設された。

59 野口宏『これならわかるパレスチナとイスラエルの歴史Q&A』大月書店(2005)p.112

60 鏡武『中東紛争その百年の相克』有斐閣(2001)p.155-162

61 レバノンを中心に活動しているイスラム教シーア派の政治組織。日本国内の報道などではヒズボラとなるが、強いて訳せばアラビア語発音でヒズブッラー、またはヒズボッラー、ペルシア語発音でヘズボッラーであり、アラビア語で「神の党」を意味する。

62 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.122-127

63 要点>第一条:五年以内に評議会(自治機関)を確立。第三条:ヨルダン川西岸とガザ地区で9ヶ月以内に評議会選挙。第五条:①ガザ・エリコからイスラエル軍撤退開始が暫定期間の始まり。②その後2年以内に占領地問題の交渉開始。③エルサレム・難民・入植地・安全・国境などが交渉の対象。

64 野口宏『これならわかるパレスチナとイスラエルの歴史Q&A』大月書店(2005)p.115,116

65 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.143

66 野口宏『これならわかるパレスチナとイスラエルの歴史Q&A』大月書店(2005)p.116,117

67 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.161-165

68 鏡武『中東紛争その百年の相克』有斐閣(2001)p.232-235

69 野口宏『これならわかるパレスチナとイスラエルの歴史Q&A』大月書店(2005)p.119

70広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.175-183

71 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.183-188

72 広河隆一『パレスチナ新版』岩波新書(2002)p.192-195

73 奈良本英佑『パレスチナの歴史』明石書店(2005)p.372-376

74 奈良本英佑『パレスチナの歴史』明石書店(2005)p.377-382

75 産経新聞(2007年4月16日)

76 東奥日報(2005年8月17日)

77 東奥日報(2006年1月5日)

78 東奥日報(2006年3月29日)

79 産経新聞(2007年6月14日)

80 ロイター(2007年6月15日)

81 産経新聞(2007年6月15日)

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84 毎日新聞(2007年7月14日)

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86 時事通信(2007年7月17日)

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97 毎日新聞(2007年7月12日)

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102 産経新聞(2007年8月1日)

103 毎日新聞(2007年8月2日)

104 ロイター(2007年7月25日)

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106 読売新聞(2006年6月23日)

107 読売新聞(2005年12月16日)

108 読売新聞(2006年2月28日)

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111 東奥日報(2006年6月21日)

112 読売新聞(2006年7月13日)

113 読売新聞(2007年3月14日)

114 アメリカ合衆国における新保守主義(ネオコンサバティブ)は保守ムーブメントの一つ。米国において今日のタカ派外交政策姿勢に非常に影響を与えている。

115 野口宏『これならわかるパレスチナとイスラエルの歴史Q&A』大月書店(2005)